日本では新コロウイルスの新規感染者とマスメディアでは報じられる、実はインチキなポリメラーゼ連鎖反応(PCR)検査とも呼べないような検査もどきで陽性になっただけの人の数が、高い頂から谷底に落ち込んでいくように、急激に少なくなりました。
PCR検査に懐疑的な考えを持つ人間からすると、今までは徹底した上げ底だっただけで、やっとあるべき姿に戻っただけと見ています。
本日の朝日新聞に載る、26日午後8時現在の全国の新規PCR陽性者の数を表にして残しておきます。
日本では新コロウイルスの新規感染者とマスメディアでは報じられる、実はインチキなポリメラーゼ連鎖反応(PCR)検査とも呼べないような検査もどきで陽性になっただけの人の数が、高い頂から谷底に落ち込んでいくように、急激に少なくなりました。
PCR検査に懐疑的な考えを持つ人間からすると、今までは徹底した上げ底だっただけで、やっとあるべき姿に戻っただけと見ています。
本日の朝日新聞に載る、26日午後8時現在の全国の新規PCR陽性者の数を表にして残しておきます。
本コーナーの前回分で、小池真理子(1952~)の最新書下ろし長編作『神よ憐れみたまえ』を読み始めたと書きました。それを読み終えましたので、感想めいたことを書いておきます。
本作を読み始めるきっかけについては、前回分に書きました。朝日新聞土曜版に政治学者の原武史氏(1962~)が担当する「歴史のダイヤグラム」というコーナーがあり、その10月16日分は、最悪の鉄道事故とされる鶴見事故が取り上げられています。
それについて書いた中に、この事故を織り込んだ小池の最新作があることを知り、関心を持って読むことになりました。
事故は、前回の東京五輪の前年、1963(昭和38)年11月9日午後9時50分頃に起き、この事故により161人が亡くなりました。小池の作品は、事故の前に発生した殺人事件の現場から始まります。映像作品でいえば、始まってすぐのクライマックスといえましょう。
小池さんが書いた本を読んでいます。といっても、悪名高い東京都知事の小池百合子氏(1952~)の本ではありません。そんなものは、頼まれても読む気になれません。私が読んでいるのは、小説家の小池真理子(1952~)が書いた小説です。
正直にいいまして、私はこれまで、小池真理子の作品を読んだことがありません。彼女の作品を読み始めることになったきっかけは、毎週土曜日に配達される、朝日新聞土曜版のあるコラムを読んだことです。その土曜版には、政治学者の原武史氏(1962~)が受け持つ「歴史のダイヤグラム」のコーナーがあり、私はそれが好きで、欠かさず読んでいます。
原氏は子供の頃から(?)鉄道に興味を持っておられるそうで、主に昔の鉄道に関する話題を毎回書いています。
先週の土曜日(16日)の分には、「鶴見(つるみ)事故が左右する運命」と見出しがつきました。鶴見事故と聞いて、すぐにその事故を思い出す人は高齢の人か、鉄道に関心を持つ人に限られましょうか。私はその事故について、ほとんど知りませんでした。
新コロ騒動を今すぐやめ、日常の生活に戻る方向へ急激に舵を切らないと危険な未来が待っている気がします。
日本国内の新コロ新規感染者が急激に下がりました。為政者や役に立たない専門家、マスメディアが感染者とする人は、PCR陽性者でしかないことは本コーナーでそのたびに書いてきたことです。どちらにしても、それに該当する人が急激に少なくなりました。
マスメディアに登場する役に立たたない専門家は、役に立たないのですから、新規陽性者の数が急減した理由を見いだせていません。実際のところは、明確な理由を知りながら、それを口に出せないだけなのかもしれません。
新規陽性者の数は、ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)検査を実施しなければ知ることができません。ということは、この検査に、新規陽性者激減の”からくり”が隠されていると見ることができそうです。
私がすぐに思いつくのは、検査におけるCt値を低く設定したからでは、です。
『ノルウェイの森』(1987)が村上春樹(1949~)の代表作であることは説明するまでもないでしょう。村上の5作目の長編小説で、1987年に出版されています。その電子書籍版を読みました。1987年には単行本で読んでいますので、34年ぶりになります。
村上は否定しているそうですが、主人公の「僕」は村上自身と重なる部分が多く、一浪の末、早稲田大学の文学部に入学した19歳の村上を重ねて読みました。
本作を読むきっかけは、前回、本コーナーで村上作品を取り上げたときに書いています。Amazonの電子書籍部門でポイントが多くつくのと、キヤノンのカメラをキャッシュバックキャンペーンで得た15000円分のキャッシュバックを消化する理由で、村上の作品で、まだ読んでいたなかった作品を中心に12作品(のちに3作品プラス)を電子書籍版で手に入れ、発表順に読んでいるのです。
どんな人にも気がかりが事があり、それが解消されないあいだは、気持ちが落ち着かなかったりするでしょう。私にもそんな気がかりがありましたが、今日の午前、解消できました。今はスッキリした気分です。
私が今日の午前に解消できた気がかりは電話です。
それがいつから始まったかは確かな記憶がありません。大ざっぱにいえば、ここ数カ月、より細かくいえば、3カ月前後になるかもしれません。
私にとっての電話は、携帯電話ではなく、昔ながらの固定電話です。
もともと、私は電話を掛けるのも、受けるのも、めったにありません。自分から掛けることはまれで、あるとすれば、歯医者の予約をするときぐらい(?)でしょうか。
そんなわけで、普段は電話にほとんど関わらずに生活していますが、それでも、自分が使うことになる電話が使えなくなれば、それはそれで不便に感じ、その不便が解消されない間は気分が落ち着きません。
9月30日、ある米国映画がBSプレミアムで放送されることを知りました。私はその映画をこれまで見たことがなく、作品名さえ聞いたことがないように思いました。しかし、番組紹介の粗筋を読むと、興味が持てそうに思い、録画して残しました。
米国で公開されたのは、先の大戦中の1943年。日本の元号でいえば昭和18年です。当時の日本国民は、軍部の教育によって、「鬼畜英米」を植え付けられていたので、敵国が作った作品は内容がどんなに優れていても、見ることは敵いませんでした。本作が日本で公開されたのは、かつての敵国、米国に遅れること47年の1990(平成2)年です。
こんな事情もあってか、本作は日本であまり知られていない(?)ように思わないでもありません。
本作について記述するネットの事典ウィキペディアで確認すると、本作のような表現スタイルは、「ソフィスティケイテッド・コメディ」というらしいです。
男女の気の利いた会話を軸に展開される都会的なコメディのことをいうらしく、なるほど、まさにそんな作品です。ちなみに、このタイプの代表作のひとつとして、私が大好きな『アパートの鍵貸します』(1960)が上げられています。
読むのを先延ばししていた村上春樹(1949~)の長編第3作目の『羊をめぐる冒険』(1982)をやった読み終わりました。
本作を含む村上作品を、今年の7月15日と16日にAmazonの電子書籍版で手に入れました。そのときに購入した作品を出版順に並べると次の通りです。
どんなことにも、標準的な物差しが用意されているように思います。私はといえば、多くが、この物差しから外れています。
成人になったら結婚をし、子供を持つのが当たり前とされ、それが実現できない人は社会で低く見られがちです(?)。私も途中まではそれに近い考えを持ち、歳をとれば、自然にそうなるだろう、と根拠もなく考えていました。
実際に歳をとりましたが、この歳までそれが実現されていません。だからといって、それを苦に感じてはいませんが。できることなら、これからでも、子供は無理としても、連れ合いができれば、とこれまた根拠なく、夢想することもありますが。
日常生活の細部にも標準的な物差しが存在します。
起きて活動する時間や、食事をする時間も、平均的な時間があります。
私はこの点も、標準からはズレています。
新コロ騒動ですが、ここへ来て、新規感染者の数が全国的に急減していることが報じられています。報道を見る限り、いわゆる専門家は、なぜ新規感染者が減っているのか、明確な説明ができていない模様です。
それはそうでしょう、と私は考えます。
本コーナーでは繰り返し書いていますが、マスメディアが好んで使う新コロの「感染者」の正体は、「PCR陽性者」のことです。騒動が始まった頃から、「PCR陽性者」となぜ伝えないのか不満を述べる声があり、私もそのひとりですが、マスメディアの大半が、頑なにそれを拒否し、「感染者」を使います。
なぜだかわかりますか? 問題意識を持たない多くの国民に、新コロが恐ろしい感染症であることを植え付けるためです。
マスメディアは、おそらくは上からの命令で、そのような報道を採るのだと思います。マスメディアも自由自在に操る者どもの最終目標は、ひとりでも多くの人間に、新コロウイルスのために作ったことにされている謎のワクチンを接種させるためです。