『ノルウェイの森』(1987)が村上春樹(1949~)の代表作であることは説明するまでもないでしょう。村上の5作目の長編小説で、1987年に出版されています。その電子書籍版を読みました。1987年には単行本で読んでいますので、34年ぶりになります。
村上は否定しているそうですが、主人公の「僕」は村上自身と重なる部分が多く、一浪の末、早稲田大学の文学部に入学した19歳の村上を重ねて読みました。
本作を読むきっかけは、前回、本コーナーで村上作品を取り上げたときに書いています。Amazonの電子書籍部門でポイントが多くつくのと、キヤノンのカメラをキャッシュバックキャンペーンで得た15000円分のキャッシュバックを消化する理由で、村上の作品で、まだ読んでいたなかった作品を中心に12作品(のちに3作品プラス)を電子書籍版で手に入れ、発表順に読んでいるのです。
本作は世にある通常の小説とは違います。取り立てて、筋らしい筋がありません。登場する人間は多くなく、それらの少ない人間とのやり取りを克明に描いた、長大な個人日記といった印象です。
人が書いた文章には、それが作り話の体裁を採っていても、書いた人の考え方や人間性が、好むと好まざるとに拘わらず、色濃く出てしまうものです。しかも、本人が否定しても、村上本人としか思えない二十歳前後の男を軸に描かれているのですから、その傾向は強まるほかありません。
それがその時期に限られるかどうか、赤の他人にはわかりようもありませんが、青年期の村上は、女性との間で何度か(?)問題を起こしていたように想像します。
村上作品を読み解こうと書かれた『1冊でわかる村上春樹』という本があります。私はサンプル版で最初の部分だけ読んだだけですが、そこに次のような気になることが書かれています。
高校の時にある出来事がきっかけで、クラスの女子生徒の多くから全く口を聞いてもらえなくなる。いじめをテーマにした短編「沈黙」や、長編『 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、この 時のつらい経験がもとになっていると思われる。
村上春樹を読み解く会 (2015-09-24). 1冊でわかる村上春樹 (Kindle の位置No.69-71). KADOKAWA / 中経出版. Kindle 版.
そんな背景を持つことなど知らず、どちらの作品も読み、本コーナーで取り上げています。
本作の中でも、主人公の「僕」が過去を振り返り、高校時代に初めて肉体関係を結んだ同級生の女生徒を、相手が自分に想いを残すことを知りながら、無造作に捨て、大学へ入学するため、東京へ出てきたと書いています。
本作で「僕」のワタナベトオルと強い関わりを持つ女性は次の3人だけです。
- 直子
- 緑
- 石田玲子
直子は、高校時代の唯一の友人、キズキの元恋人です。キズキは高校時代に自分の命を絶っています。「鼠三部作」といわれる、村上のデビュー作からの長編作品三作品には、主人公の友人として鼠のニックネームを持つ男が登場します。
この男も自殺しており、本作のキズキに重なる部分があります。もしかしたらですが、村上が神戸の公立高校に通っていたときにも同じような友人がおり、その人をモデルにした可能性もないではありません。
緑は、大学に入ってできた恋人です。村上は21歳の時に、妻になる女性と結婚しますが、彼女が緑のモデルと考える向きもあるようです。こちらも、村上は否定しているそうですが。
石田玲子は、ワタナベが、京都の山深い森の中にある精神療養施設に直子を見舞った際、施設で7、8年も療養する先輩の仲間として知り合います。
他の主な登場人物は、ワタナベが大学入学と同時に入寮した寮の先輩の永沢という男と、彼の恋人のハツミ、それから、寮で同部屋になる地図を学ぶ真面目な学生で、皆から”特攻隊”と呼ばれる男だけです。
これらの数少ない人間だけが織りなす話を、単行本では上下2巻の長編に膨らませています。しかも、筋らしい筋がほとんどないため、細部を無駄に(?)克明に描くことになります。それを読む人は、ワタナベの考えや行動に長々と付き合わされることになります。
その付き合いを楽しく感じられる人は、それがいつまでも続いてい欲しいと思ったりするのでしょう。そのように思えない私は、いつ目的地に着くのかもわからない道中に、いささかゲンナリしながら付き合うことになります。
たとえば、直子からの手紙をもらったワタナベは、すぐに行動を起こし、東京から京都を目指します。
ストーリーの展開を心得た小説家であれば、道中の始終を事細かく書くことはしません。
ある作家のエピソードを思い出しました。小説家の宮本輝(1947~)がプロになる前の逸話です。
サラリーマンをしながら、宮本は小説を書きました。書き上げた原稿を、小説の書き方を指導する先生に見せると、長々と書いた冒頭の部分をバッサリ削り、削ったあとから書き出せたら、君は天才だといわれたという話です。
宮本は一度は大いに腹を立てますが、家に帰って自分の原稿を読み直し、先生のいい分の正しさを理解します。
川端康成(1899~1972)の『雪国』(1937)にしても、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」で始まらず、主人公が列車に揺られる道中を長々と書き、トンネルの中の様子も残さず書き、ようやくトンネルを抜けて、「そこは雪国だった。」としたのでは、名作にはならなかったのではない(?)でしょうか。
ところが村上の本作は、直子の元へ向かう日のことを、朝7時に起き、寮長に断りの挨拶をするところから書き始めます。その後も、混んだ平日の通勤電車に乗り、東京駅で降り、新幹線の切符を買ったことまで書くのですから、いったいいつになったら目的地へ着くのかと先が危ぶまれるような書き方をしています。
ワタナベが直子に会うまで、いったい原稿用紙を何十枚費やしたでしょう。
着いたら着いたで、今度はそこに現れた玲子とのやり取りが延々と続くのです。こんな風だから、村上が書くのは筋を持つ小説ではなく、無断に長々と書かれた個人日記のように感じてしまうのです。
通常、読者は登場人物に思い入れを持って読み進めますが、本作の登場人物に思い入れ出来るような人間が私にはいませんでした。
主人公のワタナベという男は、初めて肉体関係を持った高校時代の女生徒を捨てて東京に出てきても、何も感じないような男です。であるのに、なぜか、自殺した親友の元恋人である直子に東京でバッタリ再会すると、自分にとって特別の女性と思い込み、関係を深めようとします。
その一方で、どんなことにも長ける寮の先輩の永沢に、寮の中で唯一認められたワタナベはいい気になり、永沢に誘われると、女漁りついていき、行きずりの女遊びをします。
村上の作品で特徴的なのは、セックス描写が豊富であることです。それがあまりに過ぎることが、村上作品嫌いを生んでいるのかもしれません。
本作のワタナベも、女と見れば、肉体のあれこれを想像し、寝ることが当たり前のように考えています。はじめの方で紹介した3人の女性ともすべて肉体関係を結んでいます。
これほどまでに、村上が自分の作品で性関係を執拗に描く心理の裏には何があるのでしょうか。
村上は主人公の体を使って、村上の分身のペニスを勃起させ、相手の女性の肉体に奥深く挿入させます。挿入ができなければ、相手の女性の手で、射精してもらういったありさまです。
ここまでの性描写に夢中になる村上は、本作の直子や玲子のように、精神専門の療養所で、何らかの療養が必要ではないのか、と考えさせられるほど(?)です。
村上が描く作品の主人公の多くは、主体性を持っていません。それだから、自分から何か意見めいたことはいわず、ひたすら、その場の雰囲気に自分を馴染ませようとします。それは、主人公の言葉遣いにそのまま表れています。
ワタナベが永沢に誘われて、永沢の恋人のハツミを加えた3人で、高級なフランス料理店の個室で食事をする場面があります。食事中、ハツミが永沢に長年持つ不満を吐き出し、気まずい空気になります。
ワタナベがいっぱしの男であれば、永沢に自分の意見をいうところですが、そんな場面でも、ワタナベは次のような言葉を吐くだけです。
「悪かったな、ワタナベ、今日は」と彼は言った。「俺はハツミを送っていくから、お前一人であとやってくれよ」
「いいですよ、僕は。食事はうまかったし」と僕は言ったが、それについては誰も何も言わなかった。
村上春樹. ノルウェイの森 (講談社文庫) (p.337). 講談社. Kindle 版.
もしも私がこの場にいたとしたら、ワタナベの不甲斐なさに腹を立て、「お前には感情も考えもないのか。今の彼らのやり取りを見て、何も感じなかったのか?」と詰問したでしょう。それがきっかけで喧嘩になるのは自然なことです。
ワタナベの狡い生き方が、この場面に象徴されています。
主人公の狡さはこの場面だけでなく、村上作品のどれにも共通しています。主人公は「別に」とか「どうかな?」とよく口にし、自分の考えを表に出しません。
もうひとつ、村上本人の人間性が投影されていると感じるのは、強い人間には媚び、弱い人間には憐れみさえ持たないことです。
本作では、寮のボス的存在の永沢には、今も書いたように、ワタナベはへいこらしています。
それとは逆に、自分と寮の部屋が一緒になった”特攻隊”とあだ名される学生のことは笑いものにします。その男子学生が、その学生が持つ性格で真面目に行動しているだけのことを嘲り、それを面白い笑い話にし、寮の学生や、出会った女性に話して聴かせて笑いをとります。
実生活でも、村上は権威を持つ者に近づくことをしています。ノーベル賞を取った山中伸弥氏(1962~)や、世界的な指揮者の小澤征爾(1935~)、心理学者で大学教授などもした河合隼雄氏(1928~2007)などに近づいては、対談をし、それを本にしたりしています。
それはちょうど、ワタナベが寮のボスの永沢に近づく心理と共通しています。
途中で書いたように、村上本人を投影した作中人物の主人公は、他者と付き合うときは自分を殺し、その場に合せようとします。その一方で、食べ物や音楽、映画などには始終悪態をつき、自分が信じるもの以外を全否定するという二面性を持っています。
これは、女性との関係にも表れ、気に入った女性であれば、相手に嫌われることを極度に恐れ、自分から意中の女性が離れれば、常識はずれなほど手紙を書き、一方的に相手に送ります。
その一方で、価値が見いだせない女性は、使い終わったトイレットペーパーのように、ポイっと捨てて心が痛まないのです。そのように捨てられたひとりが、高校時代のワタナベと付き合った、もしかしたら、村上自身の体験につながるかもしれない、女生徒です。
こうした人間性を端的にいえば、追従と冷酷です。
作品は、読む人によって受け止め方は違います。私は村上の『ノルウェイの森』をこのように受け止めましたが、あなたは自分の目と頭と心で読み、お好きなように受け止めてください。