読むのを先延ばししていた村上春樹(1949~)の長編第3作目の『羊をめぐる冒険』(1982)をやった読み終わりました。
本作を含む村上作品を、今年の7月15日と16日にAmazonの電子書籍版で手に入れました。そのときに購入した作品を出版順に並べると次の通りです。
作品名 | 出版社 | 出版年月日 |
---|---|---|
風の歌を聴け | 講談社 | 1979年7月23日 |
1973年のピンボール | 講談社 | 1980年6月17日 |
羊をめぐる冒険 | 講談社 | 1982年10月13日 |
カンガルー日和 | 平凡社 | 1983年9月9日 |
ノルウェイの森 | 講談社 | 1987年9月4日 |
ダンス・ダンス・ダンス | 講談社 | 1988年10月13日 |
遠い太鼓 | 講談社 | 1990年6月25日 |
国境の南、太陽の西 | 講談社 | 1992年10月5日 |
やがて哀しき外国語 | 講談社 | 1994年2月18日 |
アンダーグラウンド | 講談社 | 1997年3月20日 |
スプートニクの恋人 | 講談社 | 1999年4月20日 |
アフターダーク | 講談社 | 2004年9月7日 |
7月の両日にまとめて村上作品を買ったのには理由があり、そのことは、以前の本コーナーで簡単に触れました。
7月22日までの期限付きで、Amazonの電子書籍部門は、該当する書籍を購入すると、定価の30%分のポイントを付与するキャンペーンをしていました。それに加えて、私がキヤノンのキャッシュバックキャンペーン中に該当するカメラを購入したことで15000円がチャージされた使い切りのクレジットカードを有しており、そのカードと30%のポイント獲得目的で、村上作品をまとめ買いしたのでした。
『ノルウェイの森』は単行本で出た頃に読んでいますが、未読の作品と共に、今回もう一度、電子版で手に入れています。こうして表にすると、村上は講談社との付き合いが長いようです。
上に上げた12冊のほかに、この日曜日(26日)、次の村上作品も購入しています。
この三冊は、使いきりのクレジットカードの残金を使い切ってしまおうと考え、購入しました。
ともあれ、手に入れた村上作品を出版された順番に読んでいく予定です。別に、いついつまでに読み終えなければならないという決まりもないため、好きな時に好きなだけ読むだけです。
それにしても、7月半ばに手に入れながら、その3冊目が読み終わったのが2カ月後ですから、遅すぎます。それには理由があります。
30%のポイントを還元するキャンペーンのときは、ほかに、阿刀田高(1935~)の作品も何冊か購入しています。
そのキャンペーンで手に入れた作品のうち、はじめに読んだのは、村上のデビュー作『風の歌を聴け』であったように記憶しています。これが、私には特別面白くは感じられなかった(?)のか、そのあとは、阿刀田の作品を読んでいたはずです。
そうこうするうちに、電子書籍端末のKindleに、本来であれば月額980円で該当する書籍が読み放題になるKindle Unlimitedが1カ月無料で利用できるという表示が出て、それをクリックしました。ところが、私は該当者ではなかったらしく、無料で利用するつもりが、980円差し引かれて利用するはめになりました。
仕方がないので、それからの1カ月間は、有料で手に入れた村上作品を読むことから離れ、Kindle Unlimitedで利用できる阿刀田作品を次から次に読みました。
その間にも、口直しのような感じで、岡本綺堂(1872~1939)の『半七捕物帳』シリーズを楽しみに読むことをしていました。
そうこうするうちに夏が終わり、読むのを休んでいた村上作品に戻り、読み始めたというわけです。
『風の歌を聴け』と『 1973年のピンボール 』は連作のようなもので、主人公の「僕」と友人の”鼠”、それから、二人が出会った場所で、二人が落ち合うのに利用されるバー「ジェイズ・バー」のマスターのジェイとの間でのやり取りが主で、これといった出来事があるわけでもないです。
読んでいてドキドキするようなこともなく、読み進めるのがしんどく感じるほどです(?)。
『1973年のピンボール』は、後半にピンボール博士と伝説のピンボール・コレクターを匂わせる話になり、その部分は身を入れて読む気になりました。それでも、何となく肩透かしを食らった気分になるわけですが。
読み終えたばかりの『羊をめぐる冒険』にも、友人の”鼠”が出てきます。だから、これら三作品は、「鼠三部作」といわれるらしいです。
『羊をめぐる冒険』は、タイトル通り、羊の謎をめぐる話になっており、これはこれで、はじめから終わりまで、それなりに楽しく読むことができました。
話の展開は奇妙です。
主人公の「僕」は、友人(”鼠”とは別の友人)と二人で翻訳の会社を始め、それが発展して、今は広告代理業のようなことをしています。そんな「僕」に、行方をくらました”鼠”から久しぶりに手紙が届き、その中に、羊の群れが写った写真が添えられていました。
その写真を、ある保険会社のPR誌に使います。そんな仕事をしたことも忘れていると、突然、ある方面からその写真の出所を問い合わせる接触があり、「僕」は1カ月の間(だったかな?)に、目的の羊を見つけ出さなければ命が保証されない運命に巻き込まれます。
そのための”冒険”に出ざるを得なくなるわけですが、例によって、村上の文章は細部にこだわるため、なかなか前に進みません。飛行機で移動する場面も、機内で「僕」が『シャーロックホームズの冒険』(1892)を読むことまで紹介されているのですから。
途中、塩狩峠という地名が出てきたとき、三浦綾子(1922~1999)の『塩狩峠』(1968)という小説を思い出しました。
話の後半に「羊男」が登場してきます。これが奇妙な生き物で、作り物の羊のマスクをかぶり、前面にチャックのついた、羊の皮でできたつぎはぎだらけの着ぐるみを着た小男です。
この「羊男」が出てきたあたりで、私は一杯食わされた気分になりました。
そこまでに登場した人間が、実はひとりも実在せず、すべて、「僕」の”分身”か”妄想によって作りだした人間”のように思えたからです。私の解釈違いかもしれませんが、デビューからの三部作の主要登場人物である友人の”鼠”さえも、もうひとりの「僕」のように感じられます。
途中で出てくる「いるかホテル」も幻のホテルで、ホテルの支配人も、支配人の父親の羊博士も、すべて架空の存在と考えると、辻褄が合うように思えなくもありません(?)。
それが物語であれば、小説家が自分の頭の中で作り上げた人物たちが立ちまわります。だから、村上作品に登場する人物たちが、端からこの世に存在しない人物たちであっても何も問題にはなりません。
この間読んだばかりの岡本綺堂の『半七捕物帳』の第55話『かむろ蛇』では、死んだはずの男が実は生きていたことがあとでわかります。それを知らされても、「なんだ。騙された」という気分にはなりません。そんな気分にならないよう作者が描いているからです。
ということは、村上作品で同じように読めないのは、読者を納得させる描き方が村上にはできないから、ということにはならないでしょうか。
優れた表現者であれば、どんなデタラメなことも、読む者にデタラメさを気づかせずに書くことができるはずです。
いかにも作り物の「羊男」を登場させるのが村上のスタイルとしても、読者に無理をさせ過ぎではないでしょうか。
私は「羊男」が出てきた辺りで、前にも書いた通り「一杯食わされた」と感じ、それまでの話全てが嘘くさく見え、全部が「僕」の妄想ではないのか、と自分なりに納得して読み終えました。
もちろん、全部が妄想であって構わないのですが、読んだ人に妄想話と思わせてしまっては、表現として失敗しているように思わないでもありません。
優れていれば、最後まで妄想と気づかせない妄想話にできるはずですから_。