9月30日、ある米国映画がBSプレミアムで放送されることを知りました。私はその映画をこれまで見たことがなく、作品名さえ聞いたことがないように思いました。しかし、番組紹介の粗筋を読むと、興味が持てそうに思い、録画して残しました。
『天国は待ってくれる』という作品です。
米国で公開されたのは、先の大戦中の1943年。日本の元号でいえば昭和18年です。当時の日本国民は、軍部の教育によって、「鬼畜英米」を植え付けられていたので、敵国が作った作品は内容がどんなに優れていても、見ることは敵いませんでした。本作が日本で公開されたのは、かつての敵国、米国に遅れること47年の1990(平成2)年です。
こんな事情もあってか、本作は日本であまり知られていない(?)ように思わないでもありません。
本作について記述するネットの事典ウィキペディアで確認すると、本作のような表現スタイルは、「ソフィスティケイテッド・コメディ」というらしいです。
男女の気の利いた会話を軸に展開される都会的なコメディのことをいうらしく、なるほど、まさにそんな作品です。ちなみに、このタイプの代表作のひとつとして、私が大好きな『アパートの鍵貸します』(1960)が上げられています。
『アパートの鍵貸します』を監督し、これまた私が大好きな映画監督、ビリー・ワイルダー(1906~2002)は、『天国は待ってくれる』を監督したエルンスト・ルビッチ(1892~1947)の影響を強く受けたそうです。たしかに、『アパートの鍵貸します』は、洗練された言葉のやり取りが見る者を魅了します。
本作は、レスリー・ブッシュ=フェキート(1896~1971)というドイツ人が書いた”Birthday“という戯曲を、ニューヨークとカンザスを舞台にした米国映画に作り替えたもののようです。
主人公は、ヘンリー・ヴァン・クレーヴという男です。彼は、ニューヨークの上流階級の家庭のひとり息子です。少年時代は別の俳優が演じますが、結婚する歳から死んで審判を受けるまでは、ドン・アメチー(1908~1993)という俳優が演じます。
演じる歳は、結婚の年の26歳、そのちょうど10年後の36歳、14年後の50歳、そして亡くなる70歳です。本作が作られた当時、アメチーは34、5歳です。であるのに、26歳のときは26歳に、36歳のときは実年齢に近い36歳に、50歳のときは50歳らしく、70歳のときはまさに70歳に見えます。
CGも何もない時代に、メーキャップと演技でその歳に見せてしまうのですから驚きです。
結婚する年齢になっても、アメチー演じる上流階級のボンボン、ヘンリーは、仕事もせず、女性に現(うつつ)を抜かしています。そんなヘンリーが、ニューヨークの街角で、ひとりでいた女性に一目ぼれします。すぐあとに、強引に結婚することになるマーサという女性です。
出会いの場面も見ものです。生真面目な日本の映画では、決してあんな描き方はできませんね。
公衆電話からの電話を終えたマーサを、ヘンリーはひょひょいとついていきます。マーサが書店に入ると、ヘンリーも書店に入ります。マーサが何か本を捜すと、ヘンリーは書店員に成りすまし、「お探しの本は何ですか?」とかなんとか声を掛けます。
マーサが欲しかったのは『夫を幸せにする方法』という手引書でした。
マーサは、米国のカンザスに住む頑固な両親に育てられたひとり娘でした。父は食肉業で成功を収めた人です。あとでその両親が出てきますが、父は背が低く、でっぷりと太り、体の割に大きな顔は、頬が垂れ下がり、ブルドッグのようです。笑った顔は一度も見せません。母はいつもギスギスしています。
のちに、マーサを追ってカンザスの両親の家へヘンリーが行きますが、マーサを勘当した両親が、日曜の朝、食事をする場面があります。
ふたりは、異常に長いテーブルの端と端に座っています。母は日曜新聞に連載される漫画を読んでいます。早くその漫画を読みたい父は、イライラして「ジャスパー!」と大声を出します。ジャスパーというのは、黒人の忠実な男性召使です。
父はジャスパーに、母から新聞を取って、自分のところへ持ってこいと命令します。これだけのやり取りですが、これが捧腹絶倒に描かれ、ふたりは漫画を種に大喧嘩をします。
こんな両親にカンザスの田舎で育てられたのがマーサという女性です。
これまでに何度も縁談が持ち込まれたものの、父が賛成すれば母が反対し、母が賛成すると今度は父が反対するといった具合に、縁談は破談を繰り返し、奇跡的にその年、縁談がまとまって、マーサは両親とニューヨークへ出てきたばかりでした。
結婚を前にしたマーサは、結婚した夫となる男性と幸せになるため、『夫を幸せにする方法』という手引書を求めたのです。
書店でどんなやり取りをしたか忘れましたが、ヘンリーは、結婚間近であるマーサに、その結婚は止めて自分と結婚しないか、と持ち掛けます。
しかし、そのときはさすがにマーサの了解は得られず、ヘンリーはほどなく沈没します。
失恋状態にあったヘンリーが誕生日を迎え、上流階級ですから、親類縁者が着飾ってヘンリーの家に集まり、盛大なパーティが開かれます。集まった人の中に、ヘンリーが苦手な従弟のアルバートがいました。ヘンリーはいつも優等生のアルバートと比較され、彼に比べてお前は駄目だといわれます。
アルバートはゲストを連れてやって来ますが、それを見たヘンリーは驚きます。失恋したばかりのマーサが、カンザスの両親と一緒にやって来たからです。
聞けば、マーサの結婚相手はアルバートなのでした。
一家の中で、ヘンリーの理解者である祖父のヒューゴは、アルバートからマーサを奪えとけしかけ、そそっかしい情熱家のヘンリーは、ヒューゴにけしかけられた通りのことをしでかします。
真面目な筋を好む人が多い日本では、こんな話の展開はなかなか望めません。あとえあったとしても、ドタバタのお笑いにしてしまうのが落ちで、本作のような、ソフィスティケイテッド・コメディは望めないでしょう。
本作を見ていて、村上春樹(1949~)の作品を重ね合わせました。
村上といえば、昨今は毎年のようにノーベル文学賞を受賞するのではと日本でだけ(?)話題になりますが、そのたびに、それが実現しなかったことが報じられます。そんな賞の候補にされるため、村上の作品は高尚な純文学と思われるかもしれません。
しかし、実際に読んでみれば、想像している以上にハジけています。今私は、村上の短編集『カンガルー日和』(1983)を読んでいます。短編集ということもあって、話は短く、ショートショートに分類してもよさそうに思えなくもありません。
ショートショートといえば星新一(1926~1997)です。その星を追うように作品を執筆するのが阿刀田高(1935~)ですが、阿刀田曰く、ショートショートは星で始まり、星の死と共に消え去った、というようなことを文章に書いています。星のあとを担う自分を謙遜する文章です。
その阿刀田のショートショートを、AmazonのKindle Unlimitedも利用し、割とまとめて読みました。その阿刀田のショートショートに、村上の短編集が重なるような気がします。両人はそれぞれをどのように認識しているか知りませんが。
村上の短編集『カンガルー日和』に『とんがり焼の盛衰』(1983)という作品があります。これなども、主人公の「僕」は、とんがり焼を売るとんがり製菓の新作コンクールに応募し、最終審査まで残り、とんがり製菓の本社を訪れる場面があります。
彼を会社の専務が案内し、とんがり鴉に会えといいます。それは天井が5メートルぐらいある倉庫のような部屋で、中に百羽近い鴉がいます。烏たちには目がありません。鴉同士が目をつつき合い、目がなくなったのです。
あり得ないような話の展開です。村上が何に影響を受け、どこからこんな発想をするのか知りませんが、それは、阿刀田の作品世界にも通じるように思え、また、今回紹介している米国のソフィスティケイテッド・コメディで交わされる会話にも通じるように感じます。
78年も前の作品ですが、不思議と、古さをまったく感じさせません。主人公のヘンリーが、今も同じように、軽快に女遊びをしているように思えてしまいます。
ちなにみ、マーサと結婚したヘンリーはマーサを愛し、キスのシーンは10回近くあったでしょうか。撮影のときに何度も取り直しをさせられたのなら、ふたりは2、30回も唇と唇を重ね合わせた(?)かもしれません。
米国と同時に日本でも封切されたなら、キスシーンを見慣れない日本の観客は、度肝を抜かれたかもしれないですね。
機会があればぜひご覧いただきたい作品です。