スポーツ新聞(スポーツニッポン←たまにスポーツ新聞をサービスで置いていってくれるのです(^-^))をパラパラとめくっていると、女性のヌード写真が目に入りました。
そのヌードの女性は、上半身裸で顔にはサングラスをかけ、下半身は共に黒いレザーのショーツとブーツだけを身にまとっています。
問題は撮影場所ですが、この寒空の中、都心上空のヘリコプターの中です。しかも、サイドのドアは全開にされ、モデルは肢体を半身外に乗り出した形で写真に収まっています。よく見たら、寒さと恐さで鳥肌が立っていたりして(^_^;
それでそれで、この写真を撮った写真家は誰かといえば、、、「やはり、そうでしたか」。篠山紀信(しのやま・きしん)でした。
今日の記事によりますと、篠山は「デジタルに新しい写真表現の可能性を感じた」そうで、アーティスト名もこのほど「デジ紀信」に改めたとのことで、意気込みのほどが感じられます。さらには、12月1日午前0時に、革新的なサイト”digi+KISHIN”を立ち上げるのだそうです(閲覧開始は2001年12月1日午前0時)。
そのサイトの内容はといいますと、「右手にデジカメ、左手にデジタルムービーを持って」撮影した「撮り下ろしヌード50作品」を「動画と静止画の合体という新しい映像表現」で公開する、とのことです。
その新作ヌードの一つが最初にも紹介しました東京上空でのヌードというわけです。ちなみにその作品のモデルを務めているのは白鳥智恵子というモデルです。
と、ここまで篠山の新しい試みについて書いてきたわけですが、正直いいまして、私は篠山があまり好きではないんですよね(←なんじゃそりゃ(^_^;)。もちろん、人間性云々ではなく、その仕事ぶりが。
その篠山とよく比較される写真家に“アラーキー”こと荒木経惟(あらき・のぶよし)がいます。
二人は作品のモチーフとしてよくヌードの女性を用いますが、そのアプローチの仕方は180度違うといえると思います。私個人は、比べるまでもなく、アラーキーが断然好きなわけですが、どこに惹かれるかといえば、彼の写真に対する考え方です。
これは私の勝手な決めつけかもしれませんが、アラーキーの場合は、アマチュアの延長線上で仕事をされているように思います。もちろん、技術としては断るまでもなく超一流のプロフェッショナルそのものなわけですが、写真を撮る動機といいますか、写真に対する考え方全てにおいてです。
ともかくも、アラーキーは金儲けの道具として写真は撮っていない、と私は確信しています。彼の場合、お金が入ってくるのは結果でしかありません。たとえばモデルについてですが、アラーキーの場合は、基本的にいわゆるタレントさん的なモデルは用いません。どのようなつながりでモデルをお願いするのかわかりませんが、もっぱら素人の女性ばかりを撮影します。
その理由については以前にも引用した覚えがありますが、彼にいわせますとタレントというのは「造り上げられた商品のようなもの」で、「アタシがそれを撮ったところでどうなるの?」との思いがあるようです。
そうした考え方が私は好きなのです。もちろん出来上がった写真も好きなわけですが。
そのアラーキーとまるで違うアプローチをしている写真家の代表が篠山だ、と思うのです。
また、今回は新たな試みをするということですが、サイトの閲覧は有料(月極1500円)となるようです。つまりは単なるビジネスなわけです。
ホントに新しい表現に挑戦するのであれば、そんな金儲けは度外視して取り組んで欲しいと思うわけですが、結局のところは裏でお膳立てする人がいて、それに乗っかってただデジタルで写真を撮るだけにしか見えないのです。
あと、アラーキーと篠山を比較すると、プライベートではどうなんだろうと思うわけです。端的にいうと、篠山は仕事を離れても写真を撮っているのだろうか、と思ったりするのです。
その点、アラーキーはプライベートでもバンバン写真を撮っています。といいますか、仕事とプライベートを分けるのが難しいほど日常が写真と密着しているのだと思います。
一緒に暮らしていた夫人を撮るのはもちろんのこと、愛猫も撮り、自宅のベランダも撮り、ベランダから見える風景や空も撮り、愛妻の手料理が所狭しと並ぶ食卓も撮り、あと確か、見事な形に排出されたご自身のウンコを撮った作品(^_^; も見た覚えがあります。とにかく、目覚めて活動している間はカメラが身体の一部になってしまっている感じがアラーキーの場合は強く、強くします。
また、モデルについてですが、アラーキーは同じモデルを長い期間しつこく取り続けます。その典型が今は亡き妻の陽子さんです。アラーキーが大学(千葉大学・工学部)を卒業後に入社した大手広告代理店・電通で偶然出逢った陽子さんを一目で見初め、以来夫婦生活を続けながら亡くなる日まで写し続けました。
臨終を迎えた陽子さんと握手し、その手のアップや彼女の死に顔も写真に写し止めています。
同じことを篠山がやっているかといえば、もちろんやっていません。夫人の南沙織が篠山の作品に登場することはありません。もっとも実は裏で写し続けていて、発表していないだけかもしれませんが。
私個人の願望としては、写真なり絵画なりのモデルというのは作家の身近な人であって欲しいんですよね。綺麗なモデルがいました。料金を払ってモデルをお願いしました。モデルの綺麗な作品が出来ました_というのでは面白味に欠けるような気がするからです。
ここでちょっと絵の話をしてしまいますが、たびたび登場させてしまう私の好きな画家・カラヴァッジオですが、彼が絵のモデルに使ったのは全て彼の身の周りにいた友人や知人たちだったようです。
また、彼の作品に『聖母の死』(369×245cm /パリ、ルーブル美術館)があります。ここには真っ赤な衣服に身を包んで横たわる聖母の姿が描いていあるわけですが、実にリアルな表現になっています。
一説によりますと、そのモデルの女性は、川に身投げした身重の娼婦の溺死体ではないか、ともいわれています。その真偽のほどは定かではなく、後世の人間によって作り上げられた“伝説”という見方も一方にはあります。
いずれにしても、そこには理想化した人間ではなく、生身の人間をそのまま表現したいというカラヴァッジオの姿勢が伺えます。
同じようなアプローチがアラーキーにも感じられ、個人的には好感を持つわけです。
篠山に限らず、雑誌などで見かけるグラビア作品が一様に味気ないのは、“商品”としてのモデルを写している(写されている?)ためではないか、というような気が私はしてしまうのですが、いかがでしょうか?
何やら“デジ紀信”こと篠山紀信の全面否定のような書き方になってしまいました。でも、いざ彼のサイトがオープンし、実際に見てみたら非常に素晴らしく、「デジ紀信、悪くないジャン!」なんて思ってしまったりしてf(^_^)(1500円払って閲覧することはないとは思いますが、、、)。
最後に新表現に対するデジ紀信氏の意気込みを_。「見たことのない物って少ない時代だけれど、まさしく見たことのない物をお届けする」そうです。
期待して、いいんでしょうか?
スチル写真だけで構成された番組で、その時代を知る者には懐かしさを感じさせるような構成ではないでしょうか。現在、その時代の山口百恵(個人的に好きか嫌いかは別にして)に匹敵するタレントがいるとしたら誰なんでしょうね?