時代を象徴するようなことがありますと、何年経ってもそれを繰り返し振り返ります。先の大戦がその象徴ですが、戦争が終わって今年が70年目にあたります。
それがあって今年で45年経つものがありますが、何が思いつかれるでしょう。当然のように、45歳以下の人には遠い昔の出来事に感じられるでしょうが、今から45年前の1970年といえば、「大阪万博(日本万国博覧会)」があった年として多くの人に記憶されています。期間は、同年3月14日から9月13日までの183日間です。来場者数が【6421万8770人】だったことから、どれほどの熱狂に包まれたか想像できるであろうと思います。
万博の会場に選ばれたのは、大阪の吹田などに広がっていた千里丘陵です。ここに、100を超えるパビリオンが立ち並び、その周囲をモノレールが走り、さながら“未来都市”が出現したかのように見えたでしょうか。
本日は、その万博会場でひときわ目を引いたであろうパビリオンをデザインした人の話を書くことにします。日経新聞には日曜日の紙面で2ページを使った美術コーナー「美の美」があります。このところは「戦後70年」と題した連載をしていまして、9日分は第6回にあたります。
見出しは「若者たちの大阪万博」です。
いつの時代も同じでしょうが、若者は国家権力に刃向かいます。中でも、芸術関連の仕事をする者はその傾向を強く持つものです。ですから、国家プロジェクトである大阪万博にも良い感情は持てるはずもなかったでしょう。1970代といえば日米安保(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約)の反対運動(安保闘争)が若者たちの間で盛んに行われており、国家へ反旗を翻す風潮は強かったでしょう。万博に反対を示す姿勢は「反博(はんぱく)」と称されたそうです。
当時33歳だった横尾忠則さんは時代を代表するようなグラフィックデザイナーとして活躍しており、万博を「偽のお祭り」「名だけの明るい未来」「人間性をそこなう」などと批判していたそうですから、間違いなく「反博」の立場にありました。
とここまで書いたところで、一端作業を中断し、自転車で出かけてこなければなりません。ひと頃の暑さは収まったとはいえ、今日も晴れて外は暑そうです。ひと汗かいたあと、この続きをすることにします。それでは(*´д`)ノ
戻ってきましたので、更新の続きをしましょう。私は自転車で走りながら、すれ違う車のナンバーをそれとなく“観察”することは以前も書きました。今日見かけた中で珍しいと思ったのは「富士山」です。あの富士山以外ないでしょうから、どの辺のナンバーであるかはすぐにわかります。問題は、それが静岡県内のナンバーなのか、それとも山梨県内なのかです。調べてみましたら、両県にまたがるご当地ナンバーのようです。
万博には批判的だった横尾さんに、ある業界のパビリオンをデザインしてくれという話があります。このあたりはいかにも横尾さんらしいといいますか、その話をいとも簡単に受けたようです。その当時のことを訊かれ、涼しい顔で次のように振り返っています。
葛藤? 全く無かった。いとも簡単に引き受けてしまった。創造したいという本能の前ではすべてが吹き飛んだ。万博に参加することで、反博の立場を表明することだってできると考えた。
横尾さんにデザインの仕事を依頼したのは、アメリカの貿易障問題を抱えていたために作られた日本繊維産業連盟で、国内の繊維メーカーが加盟しているのでしょうか。
横尾さんがその依頼を受け、どのようにアイデアを発展させたのかはわかりません。普通、ある産業のパビリオンのデザインを依頼されたりすれば、何とかその産業をイメージするようなデザインを心がけたりするものでしょう。繊維ですから、もしも私だったら、モスラの幼虫を包む繭から発展させたような形をベースにするでしょうか。
横尾さんの場合は繊維とはまるで無関係に、クラインの壺の考え方をそのままデザインに活かしています。
当時のパビリオンを見ますと、建物としては、屋根が目立ちます。それはそれは大きな屋根で、屋根の端が地面近くまで局面を描いていますので、正面から見ると屋根だけになってしまいます。特徴的なのは、その屋根の真ん中に真っ赤なドームが出現していることです。これこそがクラインの壺で、ある物体に穴を開け、その穴から内部を引っ張り出したものがクラインの壺といった考え方になるそうです。ということは、屋根に出現しているように見えるドームは屋根の内部ということになるのでしょうか。
ここまでが横尾さんが事前にイメージした形だったでしょう。しかし、その建設現場に足を運んだ横尾さんは、ある光景を見て「美しい!」と感じ、衝撃を受けます。それは、現場で働く作業員たちの姿です。建設中の現場では、建設のための足場が組まれ、ヘルメットをかぶった作業員たちが懸命な作業をしていたでしょう。その光景を横尾さんを美しく感じ、その光景を「凍結したい」と強く思ったといいます。
その想いを依頼主側にします。「建築は完成と当時に破壊へ向かう」。「過程の状態こそがむしろ健全」などと力説しますが、関係者は迷惑がって相手にしてくれなかったそうです。依頼した側としても、綺麗に仕上がったパビリオンを望んでいるのであり、建設過程をそのまま保存したいといっても、そんな提案は受け入れられなくても仕方ありません。
当時の繊維業界はアメリカと繊維交渉(日米繊維交渉)をしている真っ最中で、横尾さんが一番の責任者にあって話をしたいといっても、それがすぐに実現できる状況にはありませんでした。しかし、最後には折れて、15分だけ時間をつくって、会長が会ってくれたそうです。
横尾さんの話を聞いたのは谷口豊三郎さんで、当時は東洋紡(とうようぼう)の社長と会長を歴任した人物で、日本繊維産業連盟の会長職にあった人です。横尾さんの話を聞いた谷口さんは、「私には理解できない。しかし、あなたの情熱は伝わった。思いの丈を実現してください」といったそうです。
その結果日の目を見ることができたのが、大阪万博の「せんい館」です。
万博のメイン会場となる大屋根(大屋根は建築家の丹下健三さんがデザインしたものです)のある「お祭り広場」を設計した建築家の磯崎新(いそざき・あらた)さんは、横尾さんと昨年末に対談したとき、次のような話をしたそうです。
(万博が開幕したのに、会場には)未完成のまま放置されたと噂されたパビリオンがあった。工事が間に合わなかったとか、予算が無くなってかわいそうだとか、散々な言われようだったね。
そういわれた横尾さんは、「初めて聞く話」だと驚いたそうです。その反応を受け、磯崎さんはこういい足したそうです。
それを知らないでいられるのが横尾さんの一番良いところ。知っていたらブレーキがかかるから。
横尾さんは建設過程をそのまま“保存”するため、建設作業のために組まれたパイプの足場をそのまま残します。そして、それらを全て真っ赤に染めます。それに加え、作業をする作業員を足場に据えるため、実際に作業をしていた作業員をつかまえてはポーズを取らせ、それを石膏で型取りしては人形のオブジェを造っていったそうです。作業をする人形も全身真っ赤に染めています。
どう見ても建設現場がそのまま残されたようで、工事が途中で中断されてしまったように見えても仕方がありません。それこそが横尾さんが美しいと感じた光景なのであり、“凍結”に成功した結果といえるでしょう。建築家の磯崎新さんは、「大阪万博の大きな計画の中で、せんい館しか面白くなかったという見方もできる」とも述べたそうです。
万博には多くの若い才能が担ぎ出されていますが、それぞれの思いの丈の多くは横やりが入って実現できなかったそうです。そんな中にあり、自分の思いをそのまま形にできた横尾さんの「せんい館」は、数少ない貴重な例として記憶と記録に残るでしょう。