本日の昼前、村上春樹(1949~)の長編小説『1Q84』を読み終えることが出来ました。
本作については、本コーナーで五回取り上げています。今回はそのまとめの第六弾です。
本作を本コーナーで初めて取り上げたのは今月8日です。紙の本は、BOOK1からBOOK3まであり、しかも、それぞれが前編と後篇に分かれています。合計六冊で構成されています。
それぞれのページ数は次のとおりです。
BOOK1 | 554 |
BOOK2 | 501 |
BOOK3 | 602 |
合計のページ数は1687です。
私は、一冊にまとめられたAmazonの電子書籍版で読みました。
電子書籍は、フォントのサイズでページ数に変化が生まれます。私は標準のフォントサイズで表示させています。電子端末はパーセンテージの表示もできます。それを頼りに、平均して、一日に全体の10%程度を目安に読み進めました。
本作を本コーナーで取り上げた8日の時点で、全体の20%、五分の一ほど読んだ段階でした。ということは、8日以前に二日読んだ計算になり、今月6日から本日16日午前まで読書に時間がかかったことになります。ちょうど十日です。
本日午前はその最終盤を読みましたが、読みながらアルフレッド・ヒッチコック(1899~1980)の作品が私の中で重なりました。『北北西に進路を取れ』(1959)です。
本作の主要人物である川奈天吾と青豆雅美が、1Q84年から本来の1984年に戻るため、首都高速の非常口に続く階段を昇っていきます。
それは、荒唐無稽な『北北西_』と大差ないです。
村上は『華麗なる賭け』(1968)がイメージの中にあるようですけれど。青豆をフェイ・ダナウェイ(1941~)に重ねて。
それはともかく、『北北西_』の主人公は、あり得ないような状況に追い込まれ、そのたびに、あり得ない運の良さで命拾いします。
本作の天吾と青豆も、『北北西_』の主人公と同じように、あり得ない幸運を次々に得て、それを掻い潜ります。
それだから、本作の終盤は、「そんなのあり得ないだろう」と野次を飛ばすような感覚で読みました。
村上春樹という小説家は、ご自身をどのジャンルの小説家と自認されているのでしょうか? エンターテインメントの小説家と考えておられるのであれば、『北北西_』を何度もご覧になって、もっとスマートなストーリーの展開を学ばれることをお勧めします。
読者を愉しませることを念頭に置かれて執筆されるのであれば、無駄な部分はばっさり削り、全体をもっとシャープにすべきです。
村上が好む「控えめにいえば」を遣わせてもらえれば、少々無駄な部分が多いように感じます。
昨日読んだ中では、千葉の千倉で療養していた父が亡くなったあとのことが描かれていました。村上の作品がエンターテインメントであれば、亡くなったあとの手続きなどについて、読者はそれを求めていません。
亡くなったことがわかれば読者はそれをそうなのかと思うだけで終わりです。
そうであるのに村上は、弁護士や葬儀会社の人間まで登場させ、細々とした手続きの話に枚数を費やしています。
そんなことは、『北北西_』で描くことをヒッチコックが許すことが考えられません。
全体を読んで感じるのは、どの登場人物も、『北北西_』の登場人物のように、ひとつの面しか持たないことです。1700ページほどの間に、それぞれの人物は、いつでもまったく同じです。
青豆はいつでも「クールでタフな青豆さん」で、天吾は青豆のことを疑いもしない予備校講師で作家志望の青年です。
それぞれがそれぞれを20年間同じ熱さで想い続けます。それを、村上が純文学として描いたとしたら、人間の機微というものがまったくわかっていないのを告白するのと同じです。
そんな人間がどこにいますか? エンターテインメントならそれでもいいでしょう。映画の『北北西_』のように。「これはエンターテインメントなのです」と断って書いたのであれば。どんな荒唐無稽なストーリーやキャラクターでも、笑って許せます。
結局のところ、これだけの枚数を使って、村上が何を描きたかったのか私にはわかりません。男女が真剣に愛し合う素晴らしさを描きたかったのでしょうか?
その疑問は、終盤に天吾と青豆が「再会」する場面が近づくにつれ、強くなりました。だから、まさか、このままハッピーエンドで終わることはないですよね? と念を押したくなりました。
読者にはハッピーエンドと思わせつつ、最後の最後にどんでん返しが待っているのだとばかり思って読みました。そうでなかったら、あまりにも馬鹿々々しすぎます。
ほかにも疑問がいろいろあります。
本作の冒頭で、青豆は渋滞した首都高速を走るタクシーの中で、ヤナーチェク(1854~1928)の『シンフォニエッタ』(1926)を偶然聴きます。
その曲を聴いたとき、クラシック音楽にそれほど詳しくない青豆が、作曲者名と曲名を頭の中に思い浮かべることができます。そこには理由があるはずです。
そのあと、天吾が高校2年のときにあった音楽会で、その曲のティンパニを代役で演奏していたことが明かされます。
読者としては、そのことと青豆の間には、その曲を通じて何かが結び合わされていると考えざるを得なくなります。しかしそのことは、最後まで何も書かれません。
私はてっきり、1984年に戻って乗ったタクシーのカーラジオから、その曲が流れて来るものとばかり考えていました。しかし、村上はそのことを「忘れた」のか、それを書くことをしていません。
それだったら、どうして、本作の冒頭で青豆が『シンフォニエッタ』にあれほど感応したのかわからなくなります。
天吾と青豆の担任をした女教師は、高校生になった天吾が音楽会でティンパニを演奏したことをのちのちまで鮮やかに憶えていることまで書いているのにです。
摩訶不思議な少女「ふかえり」の保護者を7年も続けた戎野(えびす)という学者は途中からまったく登場しなくなりました。読者は彼がどうしたのか気にしています。それに応えるのも作者の役割ではありませんか?
天吾が毎週金曜日の午後、自分のアパートで10歳年上の人妻とセックスフレンドになっています。ある日突然、そのセックスフレンドの夫から電話が天吾にかかってきます。
彼女の夫は、天吾に「妻は失われた」とだけ天吾に伝えます。その人妻がどのような状況になったのか、読者にはわからないままです。
そして、肝心要の、天吾の父のことも謎のまま終わります。
天吾は異常に疑り深く、父が血のつながった父でないと思い込んでいます。天吾は、母が別の男と関係を持ち、自分が生まれたと考えています。
その父が死んだとき、戸籍によって、天吾の考えが思い違いであろうことがわかります。それでもなお、天吾は自分の「妄想」にしがみつこうとします。
それでは、天吾の父は浮かばれないのではありませんか?
物語の途中、天吾のアパートや、青豆が「潜伏」するマンション、そして、「偵察」のために牛河が潜むアパートのドアを外から強くノックして、NHKの受信料を払うように訴える集金人が登場します。
ノックの音と集金人の声を部屋の中から聴くだけです。最後まで、その集金人の正体が明かされません。
村上は、療養所で意識を失っている天吾の父をその「正体」にしたいのでしょうが、それを具体的に書くことをしていません。このあたりも、読者には不親切に感じられます。
天吾は、一歳半頃の自分が目にした記憶を成人してからも持ち続けます。その記憶の中の母は、半裸で天吾の知らない男に乳首を吸われています。
それが現実に起こったことなのか、それとも天吾の「妄想」に過ぎないのか、最後までわかりません。
これだけ疑り深い性格の天吾が、青豆のことはまったく疑いません。10歳の時以来20年ぶりに出会った青豆を無条件に受け入れます。その寛容さはどこから生まれるのでしょう。
あまりにも出来過ぎているため、本作の「後日談」が頭に生まれます。それほど時間が経たないうちに、ふたりは互いに不満な点を見つけ、喧嘩別れてしまうのではないか、と。
喧嘩の原因は、女性に甘い天吾が、気安くその女性とセックスしたことが青豆に見つかるといったシチュエーションが一番考えられます。
青豆という女性は、一本気のところがあります。その上、マーシャルアーツの心得があり、男性の睾丸にひと蹴りでダメージを与えることができます。
のんびりしたところがある天吾は、カッとした青豆の睾丸蹴り一発で伸びてしまうことでしょう。
そんな情景がどうしても浮かんでしまいます。
青豆を護るタマルというボディーガードにしても、あまりにも漫画チックです。アニメやエンターテインメントなら許されますが、純文学と村上が考えているとすれば、どうなんでしょうか?
村上の言い回しに面白いところがあるのは否定しません。
牛河という男が、アパートの一階の部屋に潜み、そこから、望遠レンズをつけて、住人を偵察する場面で、住民に牛河が勝手に名前をつけて、レンズの向こうの住人に心の中で呼びかける場面があります。
たとえば、「毛(もう)さん」と呼びかけたりします。牛河がその男に「毛さん」と名付けたのは、毛沢東(1893~1976)と髪形が似ているからなどとあり、読みながら笑わせられます。
また、タマルに「今死んでしまえば、明日、死ぬことで煩わされることはない」というようなことをいわせたりします。
いってみれば、そのような文章のやり取りを村上が自分で楽しみながら書いているともいえましょう。それはそれで、読む人間を愉しませることになります。
それでも、全体を通して読んでみて、描かれる人物が平板過ぎると、満足感は薄まります。
男女の愛情を描くのであれば、それぞれが相手を疑うことで、愛情が深まるのではありませんか? それなのに、天吾と青豆ははじめから終わりまで、相手を疑うことをしません。
漫画じゃないのですから、もっと人間を掘り下げて描くことをしませんか?
ここに並べた「欠点」は村上のどの作品にも共通するように思います。それだから、芥川賞を受賞できなかったといえなくもなさそうです。村上が受賞するのに相応しいのは、直木賞のほうかもしれません。
村上がその賞の受賞を望んでいるかどうかは知りません。
ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』を頭に置いて本作を読むと、無駄が多すぎ、シャープさが圧倒的に欠けています。ラストも、もう少し簡潔に、ウィットに富ませることが望まれます。
一度、スパイ映画の脚本を書くつもりで、スピーディーな作品を書いてみたらいかがですか。無駄な部分を削り、得意のウィットを加え、序破急で、ストンと終わらせるとうまくいくかもしれません。