私は興味のあることを周期的に、代わる代わる集中してする傾向を持ちます。今私が興味を持つのは読書です。
読書をするのでも、そのときどきで、私が関心を持つ作家は違います。今は村上春樹(1949~)の作品を続けて読んでいます。
私が村上に興味を持つようになってからこれまで、短編集とエッセイ集はほとんど読みました。長編小説も発表順に読み、残りは昨年発表の作品を含め3作品ほどです。
私はAmazonの電子書籍を利用して読んでおり、年に何度か、半額程度で読める機会にまとめて読むようなことをしています。
昨年夏にもそれがあり、そのときに手に入れた村上作品は次のものです。
螢・納屋を焼く・その他の短編 | 1984年 | 既読 |
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド | 1985年 | 上巻半分だけ既読 |
雨天炎天 | 1990年 | 既読 |
神の子どもたちはみな踊る | 2000年 | 既読 |
海辺のカフカ | 2002年 | 既読 |
1Q84 | 2009年 2010年 | 読み始めたところ |
騎士団長殺し | 2017年 | 未読 |
発表順に読み、最初の短編集のあとに『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み始めましたが、上巻の半分程度読んだあたりで読む気力が落ち、そこで一旦停止し、『雨天炎天』という旅エッセイ集を先に読みました。
それを読んだのは昨年8月末頃だったように記憶します。その頃に、高校野球秋の地方大会が始まり、地方球場へ電車で行くとき、車内で読んだような記憶があります。
続けて、『神の子どもたちはみな踊る』という短編集を読み始め、2編ほど読んだところで、そのとき急に関心を持ったアガサ・クリスティ(1890~1976)の『ハロウィーン・パーティ』(1969)を割り込むように読みました。
そのことで、アーサー・コナン・ドイル(1859~1930)の『シャーロック・ホームズシリーズ』などを読むうちに、村上の作品からしばらく離れてしまいました。
その後、短編集を途中まで読んでいたことを忘れ、長編の『海辺のカフカ』に移ってしまいました。
読書というのは、ある程度長い時間かけてしなければリズムが生まれません。それなのに、私は毎日、入眠の引き金のようにして30分程度しか読書の時間をあてなかったため、読書のリズムが生まれませんでした。
これでは駄目だと、読書の時間を最近になって増やし、『海辺のカフカ』を読み、途中まで読んだままだった短編集『神の子どもたちはみな踊る』を読みました。
読書の時間は、できれば、長ければ長いほど好ましいです。それでも、それだけの時間がなかなかあてられません。それでも、毎日2時間程度は持ちたいものです。
一日の時間は限られています。今後は、ネットの動画共有サイトYouTubeに接する時間を削って、読書の時間にしましょう。YouTubeも見たい動画が最近は減ってきました。
短編集の『神の子どもたちはみな踊る』はそれぞれがライトな感覚で、すぐに読み終えることができます。
表題作の『神の子どもたちはみな踊る』は、都内の小さな出版社に勤める25歳の善也(よしや)が主人公です。エキセントリックな母親と二人暮らししており、善也は父親を見たことがありません。
ある宗教の熱心な信者の母親は、善也が成長した時、息子の父親でありそうな男との間に起きた話を聴かせます。その男の特徴は、右の耳たぶがちぎれていることです。
その日の午後10時30分頃、善也が地下鉄大手町駅で乗り換えようとしていたとき、右の耳たぶがちぎれた男を見かけます。善也は自分の家とは反対方向に向かう地下鉄千代田線の我孫子駅行きに乗り、男のあとを追います。
こんな具合で、このあとどんな結末が待っているのだろうと期待を膨らませて読むと、期待をはぐらかされ、満足感が得られないまま終わってしまいます。
おまけに、村上作品で過剰に登場する性の話がこの話にも出てきます。それが「大きなおちんちん」です。この話の終盤にそれが必要な意味がよくわかりません。
松本清張(1909~1992)が同じような展開を繰り広げたら、気が狂ったと思われたでしょう。村上だったら許されるということだろうと思います。
『神の子どもたちはみな踊る』は村上としては非常に珍しく、1999年に新潮社の文芸雑誌『新潮』に、5カ月かけて連載しています。
といっても、あらかじめ5作品を書き上げたあと、連載という形で作品を発表しただけでしょう。短編集の6作目だけは書下ろしです。
6作を読んでみて、個人的には、書下ろしの『蜂蜜パイ』が最もまとまっているように感じました。逆のいい方をすれば破綻がなく、村上でなくても書けそうな作品にも感じます。
短編集を読んだあと、続けて長編の『1Q84』を読み始めました。私はいつものように、予備知識を一切持たず読んでいます。
出だしはなかなか快調です。
「青豆」という非常に変わった苗字を持つ若い女性が、ある「仕事」のため東京・渋谷に行く必要があり、高円寺(だったかな?)からタクシーに乗ります。
乗ってしばらくたってからそれが個人タクシーであることに気がつきます。ピカピカに磨かれたタクシーで、車内にはヤナーチェク(1854~1928)の『シンフォニエッタ』(1926)が申し分のない音響で奏でられています。
快適な気分で待ち合わせ場所に行けるかと思いきや、急ぐつもりで首都高速に乗るよう指示したのが裏目に出て、大渋滞に巻き込まれてしまいます。
困っている青豆に運転手が助け舟を出します。首都高速には一定間隔に非常駐車帯が設けられており、そこについている非常階段で下へ降りれば、電車で渋谷まですぐにいけますよ。と。
舞台は変わって、天吾(てんご)というのが本名なのかペンネームなのか私は読み始めたのでわかりませんが、そういう名前の青年が、新宿駅近くの喫茶店で発作に襲われます。
それが収まると、天吾の前には、打ち合わせ相手の小松という編集者がいます。天吾は予備校で数学を教えながら、作家を目指しています。
天吾は17歳の女子高生が書いた小説に彼女の才能を感じ、小松にそれを話しているところです。
青豆や天吾が今後どこかで出会い、さまざまに関係を持つように描かれるのでしょう。例によって、村上お得意のセックス絡みは避けられそうにありません。
それが苦手で村上作品を敬遠する人もいるだろうと思います。私も苦手ですが、村上作品を読む以上、どうしてもそれを避けては読み進められないと我慢して付き合うことをしています。
それにしても、村上はどうしてあんなにも、性器やセックスの話が好きなのでしょう。読み終えた『海辺のカフカ』にも当然のようにそれが登場します。
『海辺のカフカ』については、本コーナーで取り上げることになると思います。
文字で書かれた小説は、動画にはない自由さがあります。読者は、自分のイメージを膨らませて、ただの文字に自分の好きな色をつけることができます。
しばらくは、努めて、読書のための時間を作ることにします。