世の中は大型連休に入りました。私は休日とは関係なく過ごしていますので、それが大型だといわれても、何も変化がありません。
そんな私ではありますが、今の時期、各地で高校野球春季大会が開かれており、この時期は例年、その観戦に出かけるのが習慣となっています。
昨日(28日)も高い気温の中、球場のスタンドで観戦してきました。
球場への行き返りの電車の中や、球場で試合開始を待つ時間なども利用し、村上春樹(1949~)の長編小説を読み終えたので、それについて書いておきます。
昨日で読み終えたのは村上の『騎士団長殺し』(2017)です。これで、昨年8月、定価の半分程度のポイントがつくタイミングに購入した村上の作品をほぼ読み終えました。
残すところは、上巻の半分まで読んだところで停止したままの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)だけです。
螢・納屋を焼く・その他の短編 | 1984年 | 既読 |
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド | 1985年 | 上巻半分だけ既読 |
雨天炎天 | 1990年 | 既読 |
神の子どもたちはみな踊る | 2000年 | 既読 |
海辺のカフカ | 2002年 | 既読 |
1Q84 | 2009年 2010年 | 既読 |
騎士団長殺し | 2017年 | 既読 |
読み終えたばかりの『騎士団長殺し』ですが、村上のワンパターンが繰り返されただけの印象です。
本作を村上はまた一人称で書いています。その人称は、絵を描いて暮らす「私」で、年齢は36歳です。村上が「私」や「僕」の目線で描くときは、村上自身の生き方や考え方がそのまま反映されます。
村上は自分自身を絶対視します。ですから、どんなことが起きても、最後は必ず、「私」自身が思う通りの結末となります。それが村上のパターンですから、最後はそうなるのだろうと思って読み、そのとおりになることが確認された形で作品が終わります。
まったく別の分野になりますが、村上は竹内まりや(1955~)と共通する点があるように思います。
竹内が書く歌詞に登場する主人公は、多くが竹内自身の反映です。彼女も自分を絶対視しているところがあります。彼女自身は自分をみじめに見ることはありません。
そのため、竹内の曲に登場する女性主人公は、失恋しても苦しむことはしません。苦しむのは、主人公の女性から離れた元恋人です。
竹内の曲を私は精通しているわけではありません。私の知らない曲は多く、その中には、自分自身をみじめに描いた曲もあるかもしれません。
本作の「私」は6年連れ添った妻の柚からある日突然、離婚を迫られます。「私」には思い当ることがありません。それでも、事を荒立てることを嫌ってか、それを受け入れ、夫婦が暮らす都心のマンションを妻に明け渡し、ひとりで家を出ます。
その後、2カ月ほどでしたか、自分の古い愛車で東北地方をあてもなく回り、美術大学時代からの友人の雨田(あまだ)政彦の好意で、小田原の山の上にある、政彦の父が住まいと画室に使っていた家を借り受けます。
政彦の父は雨田具彦(ともひこ)といい、日本画家の大家という設定です。その具彦は90歳を越し、今は物事の判断がほとんどつかない状態で、高級養護施設に入っています。
小田原の山の上にひとりで住むようになった「私」に、谷を挟んだ真向かいにある大きな白い家にひとりで暮らす免色渉(めんしき・わたる)という不思議な男が近づいてきます。
また、家の近くにある祠の裏から、何のために造られたかわからない縦穴が見つかります。
そのほかに、「私」が教師をする町の絵画教室の生徒のひとりであった謎の13歳の少女、秋川まりえが「私」の前に現れます。
本作のタイトルとなる『騎士団長殺し』と書かれた札がつく絵画作品が屋根裏に隠し置かれているのを「私」がたまたま見つけます。雨田具彦がそれを描きながら、発表をせず、厳重に梱包して屋根裏に隠し置かれていたものです。
これらの「素材」を使って村上が作品にしていくわけですが、その手際が良いかといえば、そうでもないように私は感じました。
秋川まりえは父の良信との父娘で、母はまりえがまだ小さかったとき、家の近くにいたススメバチに刺されて死んだと書かれています。
まりえは父との関係が良くなく、父が仕事で家にいないことが多いことから、父の妹の笙子(しょうこ)が母の代わりを果たしています。
まりえの父の良信はまったく描かれていません。まりえは変わった少女で、その原因には父親との関係もありそうです。
小説には「普通」も何もないでしょうが、敢えて「普通」と書けば、少女と父親がどんな関係にあるか書くことが多いように思います。
村上は興味のないことは書きたくないのかもしれません。まりえの父親の良信は最後までまったく登場しません。これは小説としても不自然です。
村上は父との関係がよくなかったことを知りました。それが彼の作品にどうしても出てきてしまうのでしょう。
途中で、良信が新宗教と関係がありそうなことが書かれています。それを読んだあと、私は勝手に次のような想像をしてしまいました。
良信の妻でまりえの母はスズメバチに刺されて死んだことにされていますが、もしかしたら、「私」が今住んでいて、日本画家の大家、雨田具彦の家の裏に石造りの穴を作り、そこに閉じ込めて餓死させたのではないのか、と。
しかし、最後まで、読者がいろいろに疑問に持つようなことに、村上は一切応えていません。その穴が何のために造られたのかもわからないままです。
谷を挟んで向かい合う大きな家にひとりで住む免色も、最後まで謎めいた人物のままです。
村上作品の主人公の多くは、現実とは思えない夢のような世界を漂います。本作でも、「私」が「地下空間」のようなところに自分の意思で入っていきます。
それが夢として描かれるのであれば、それはそれで納得できます。しかし、それが現実とつながるように描かれるため、納得できないままになります。
日本画家の具彦が入っている療養所の部屋に、意識をなくした具彦と「私」がふたりきりでいる時、その部屋の床の一部が開き、そこから「地下空間」に入っていきますが、現実にはそんなことは起こりようがないです。
村上は、現実に目にしていることが現実である保証はないようなことを書きます。そうはいわれても、現実に起きようがないことが起きたといわれても、納得できません。
まりえが体験する4日間の出来事は、現実に起きたのだろうと考えることができます。それでも、4日間、まりえは一度もトイレに行かずに過ごせるだろうかと考えてしまいます。
例によって、性的なことが随所に登場します。
「私」の性的欲求が高まれば、都合よく、それに応えてくれる女性が登場します。本作では、「私」が教える町の絵画教室に通う年上の人妻がセックスフレンドになります。
このセックスフレンドとの付き合いも「私」に都合よく、ちょうど切りがついたあたりで、人妻から関係を解消するように申し出られます。
本作で面白いと思ったのは、具彦の作品に描かれた騎士団長の姿を借りたイデアの言葉遣いです。
イデアは自分を「あたし」といい、相手のことを、ひとりの場合も、「諸君」といいます。また、「ない」というときは「あら」をつけます。たとえば、「それは関係ない」を「それは関係あらない」というように。
村上の小説を読み終わったので、松本清張(1909~ 1992)の小説を読み始めました。『渡された場面』( 1976)という作品です。
その中に、登場人物の考えとして次のように書かれた部分があります。
彼が信子の愛読する林芙美子の小説を通俗だと軽蔑するのは、それには「高い文学性がない」こと、「心理描写が低俗」なこと、「文章には知性がなく、洗練された感覚がない」こと、そして何よりも「文学的な哲学性によるイデーに構築された深遠で冥想的な美がない」ことなどからだった。
松本清張. 渡された場面(新潮文庫) (p.19). 新潮社. Kindle 版.
まだ読み始めたばかりなので、この引用にある信子の彼氏の下坂一夫の文学評がどの程度的を射ているかわかりません。その下坂を借りて清張が村上作品を評させたらどうなるだろうと考えました。
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これを利用して、途中まで読んだままの村上の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を耳から楽しもうかと考えています。
ほかにもAudibleになった村上作品があるので、既に読んだ作品をもう一度、耳で楽しむことを考えないでもありません。
聴覚で楽しむことで、別の発見があるかもしれません。