切りのいい今月一日から、Amazonのあるサービスの利用を始めました。それはAudible(オーディブル)というものです。
知っている人や利用している人には説明の必要がないでしょう。
これは、文字で書かれた本を、プロが朗読したオーディオブックで楽しめるサービスです。出版されたすべての本がオーディオブックになっているわけではありませんが、自分が読みたい本がオーディオブックになっていれば、自分の眼で活字を追わずに、作品世界を愉しむことができます。
先月の終わり頃、本サービスを愉しむには月額1500円かかるところ、2カ月無料で利用できる旨の連絡がメールで入りました。
おそらくは本サービスが始まった頃だったと思いますが、利用したことがあり、その後も何度か、無料で聴けるタイミングに利用しています。
はじめに利用した時は、小説家や文化人の講演会を収録した音声ファイルを続けて楽しみました。
今回これを利用しようと思ったのは、小説家の村上春樹(1949~)の長編小説を先月までに、最新作以外を読み終えたものの、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)だけは、上下巻の上巻の途中まで読んで、中断した状態にあったことです。
この作品もオーディオブックになっていることがわかりました。
Audibleで、活字の本と同じように楽しめている人もいるかもしれません。しかし、私の場合は、これで長い小説を楽しむのはなかなか難しいように感じます。
これで楽しもうと思った村上の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を例にとると、上巻が12時間6分、下巻が12時間22分。合計で24時間28分、スピーカーに耳を澄ます必要があります。
自分の眼で活字を追っても同じような時間か、それ以上の時間がかかります。自分の眼を使う代わりに、プロが朗読してくれるのを耳で楽しむだけなので、オーディオブックのほうが楽に感じられる人もいるでしょう。
しかし、私の場合は、続けてこれだけの長時間聴き続けるのが苦痛に感じられてしまいます。
同じ時間を要しても、それが通常の読書であれば、時間を無駄にしたようには感じません。それが、オーディオブックに耳を澄ませているだけだと、何となく、時間を無駄にしているように感じてしまうのです。
私は、椅子に座って、bluetoothスピーカーから流れて来る朗読を聴きます。

スピーカーのほかに、bluetoothイヤホンを使うこともあります。集中して聴けるのはイヤホンです。

電車で通勤する人が、その時間を利用してオーディオブックを楽しむのであれば、時間を有効に活用しているように感じるのかもしれません。
あとでまた試すかわかりませんが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』をオーディオブックで楽しむのを一旦諦め、村上が書いたエッセイはどうだろうかと考え、『職業としての小説家』(2015 オーディオブックの長さは8時間36分です)をオーディオブックで聴いてみました。
私の場合は、オーディオブックで小説を聴くよりもエッセイの方が聴きやすいようで、こちらはすんなりと聴くことができます。
本エッセイはAmazonの電子書籍版で読み、本コーナーで取り上げています。本エッセイ集は、ほぼすべてを書下ろしで作品を発表する村上としては珍しく、『MONKEY』という雑誌に連載したエッセイを一冊にまとめたものです。
全部で第12回までありますが、昨日で第11回の半分ぐらいまで聴き終わりました。
小説であっても、それほど長くない作品であれば、オーディオブック形式でも楽しめるかもしれません。たとえば、アーサー・コナン・ドイル(1859~1930)の『シャーロック・ホームズの冒険3』は1時間57分ですから、映画を一本見るつもりで楽しめそうです。
ネットの動画共有サイトYouTubeの動画も、動画の再生時間が長くなる傾向にあります。一本の動画の長さが2時間と知ったら、よほど興味が持てるものか、あるいは、時間に余裕があるときでない限り、はじめから終わりまで視聴しようとはなかなか思わないでしょう。
オーディオブックにも同じことがいえます。それが10時間を超える再生時間と知れば、聴き始める前に腰が引けてしまいそうです。
もうすぐ聴き終わる『職業としての小説家』は、読んだ内容を結構憶えていました。村上が小説家を目指すきっかけの話から、小説家になったあとのことなどを織り交ぜて書かれています。
村上がプロ野球のヤクルトスワローズのファンだとよく知られています。村上が神宮球場の近くに住んでいた1978年4月1日、ヤクルトと広島カープの開幕戦を、神宮球場の外野の芝生席で、ビールを飲みながら観戦します。
ヤクルトのトップバッターのデーブ・ヒルトン(1950~2017)が二塁打を打った瞬間、村上に天啓のようなものが降りて来ます。自分で小説を書いてみよう、と。
そんな風にして書いた処女作の『風の歌を聴け』(1979)を文芸雑誌『群像』の編集部へ送り、一年後、その雑誌が催す新人文学賞を受賞します。村上にとってはおそらく青天の霹靂的な出来事で、それが小説家への道を開きます。
本書にある村上の表現を借りれば、小説家として「リング」に上がるための「パスポート」を得たというようなことになりましょう。
村上はこれまで、小説が書けなくてスランプになったことは一度もないと書いています。それは、村上が自分で構築した執筆スタイルに負うところが大きいのがわかります。
村上は、小説を書いてくれと頼まれて書く仕事は基本的に受けません。多くの小説家がするような、書きながら発表する連載式の仕事はしません。
そんな村上には、しばらく小説を書かないでいると、小説を書きたい気持ちが自然発生的に起こります。その気持ちが高まったところで書き始めるため、結果的に、途中で書けなくて苦しむことがないのです。これは、逆転の発想というものです。
これにかこつけて書けば、私は本サイトの本コーナーを書き始めて、四半世紀です。私の場合も書きたいときに書きたいことを書くだけなので、スランプに陥ったことはありません。
もしも私の本コーナーが、書くテーマを決められ、締め切りまでに書くよういわれたら、途中で本コーナーを閉じていたでしょう。
村上がそんな創作スタイルを持つからか、出版社の編集者と良好な関係だったとはいえないようです。そのあたりのことを、『職業としての小説家』の第10回「誰のために書くのか?」に次のように書いています。
僕の本を出す出版社内でも、僕の書いたものを支持してくれる編集者よりは、どちらかといえば批判的な立場を取る編集者の方が数が多かったみたいです。
村上春樹. 職業としての小説家(新潮文庫) (p.219). 新潮社. Kindle 版.
私が村上の作品を集中して読むようになったのはここ数年です。村上について書かれたネットの事典ウィキペディアを見ると、『羊をめぐる冒険』(1982)を書いた頃が村上の創作活動の上でも、生活面でもひとつの転機になっているように思われます。
それを書いた頃、村上はそれまで続けていたジャズ喫茶の経営から離れ、住まいも、東京都内から千葉の習志野に変えています。
上に紹介した編集者とのことも、『羊をめぐる冒険』執筆中に起きています。ほかにも、それまでに発表した長編小説二篇を厳しく批評する声があることを知り、海外へ出ようと考え始めたのもこの頃ではなかろうかと想像します。
実際、1986年10月にはヨーロッパへ渡り、その後、米国の大学で教えるようなことをして日本に戻ったのは、村上が44歳になった1995年です。9年間ほど日本から離れていたことになります。
村上について書かれたウィキペディアはこれまでに何度も目を通していますが、今回もまた見て、村上の短編集の処女作品『中国行きのスロウ・ボート』(1983)をまだ読んでいないかもしれないと思いました。
私はこれまで、村上の長編小説は最新作以外と、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は上巻の途中まで読みました。短編集もほとんど読んでいるはずです。
Amazonの電子書籍で『中国行きのスロウ・ボート』を確認すると、本短編集は、これまで電子書籍化されていなかったことがわかります。私は、電子書籍で本を読む習慣を持つため、電子書籍版が出ていなかった本短編集を読んでいなかったことになります。
単行本で出版された本短編集は、一度、実質的に絶版状態になったそうです。それが、今年になって復刻されたばかりだったことを初めて知りました。
本短編集の電子書籍版は今年の4月30日の発行です。早速電子書籍版を購入し、昨日の夕方に読み始めました。
これについては、読み終わったら本コーナーで取り上げることにしましょう。
村上は自分の作品に対する批判に耐える一方で、手放しで称賛されるようなことにも警戒しているのでしょう。今回取り上げた『職業としての小説家』にも、「ほめ殺しほど怖いものはない」と書いています。
この一日からAudibleの利用を始めたわけですが、二カ月無料で利用できると思ったサービスが一カ月であることがわかりました。ということで、残りは半月ほどになってしまいました。
村上のエッセイを聴き終えたら、途中で書いたように、アーサー・コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』を聴き、そのほかにも、短めの小説を聴いてみましょうか。
それでもしもオーディオブックでも楽しめそうなことがわかったら、有料でAudibleの利用を続けることになるかもしれません。
最後の「あとがき」まで聴いて、活字で読んだときのことを思い出しました。
本エッセイの紹介で、「MONKEY」に連載したものを一冊にまとめたものと書きました。これは半分しか正しくありません。全部で12回までありますが、雑誌に連載されたのは6回で、残りの5回は書き下ろしです。そして最後の第12回だけは、親交のあった河合隼雄氏(1928~200)について京都大学で講演した時の原稿がそのまま掲載されています。
また、前半の6回分は、雑誌に依頼を受けてから書いたものではありません。本エッセイが出版されたのは2015年で、その5、6年前ということで、2010年前後から、仕事の合間に、テーマごとに自発的に書いた文章が基となったそうです。
「MONKEY」という新しいタイプの文芸雑誌が創刊され、その編集長をする柴田元幸氏(1954~)とは親交がありました。
その柴田氏から何か作品があればと依頼され、ちょうど書き終えたばかりの作品がちょうどあったのでそれを渡し、ついでのように、書き溜めた文章があるので、よかったら載せてもらいたいと話し、それが実現したのことです。
書き溜めた文章を読み返すと、少々硬く感じられたので、30人から40人ぐらいの聴衆を前にして親密に話しかけるような文章に書き直したそうです。
文章を読むのと、朗読で聴くのとでは、同じ作品であっても印象が違います。
文章を読んでいるときはそれほど気になりませんでしたが、朗読を聴くと、村上の文章が「くどく」感じました。もしかしたら、朗読をする人の朗読の仕方も影響しているかもしれません。
話が終わりそうでなかなか終わりません。それが、少ない聴衆を前にして村上が話しているとしたら、話がくどすぎて、嫌気が射すかもしれないと思うほどです。
この「くどさ」は村上の作品にも共通することです。ということは、村上の長編作品をAudibleで聴いたら、読書で感じる「くどさ」が倍加され、聴いていられなくなりそうな気がします。