このところは村上春樹(1949~)の長編小説『1Q84』にどっぷりと浸かった状態です。とても長い小説で、なかなか読み終わりません。
紙の本では、BOOK1からBOOK3まであり、それぞれは前編と後篇とに組まれています。全部で6冊です。私はAmazonの電子書籍版で読んでいるため、ひと続きで読める環境です。
一日に全体の10%程度読むことをしており、昨日の時点では、BOOK2の後篇・第15章まで読み終わりました。ページ数にすると923ページで、パーセンテージは54%です。
ようやく折り返したばかりです。
昨日は12%読みましたが、村上の作品を読みながら初めて涙がこぼれました。作品に書かれていることから、作品を離れた普遍的な人生そのものにイメージを膨らませ、涙が堪えられなくなったのです。
本作は、主要人物の「青豆(あおまめ)」というスポーツインストラクターをする30歳目前の女性と、「天吾(てんご)」という名の作家志望で、週三日、予備校で数学の講師をする青年を、それぞれ、別の章に分け、交互に描いています。
私が昨日涙を流したのは天吾の章です。
東京の高円寺にあるアパートで独り暮らしをする天吾は、予備校で教える以外、他者との接点が極めて希薄な状態になります。気分を紛らすため、あてもなく、夏のある朝アパートを出ます。
とりあえず、JR中央線で東京駅まで電車に乗ります。その先どうするか、天吾自身には何の予定もありません。しかしその一方で、あらかじめ、予定のようなものを彼自身が無意識に持っていたのでしょう。
天吾は東京駅から特急に乗り、房総半島の南端付近にある館山駅まで向かいます。そこで在来線に駅乗り、千倉駅で降ります。
そこには、天吾の父がいます。数年前、認知症が進み、そこにある療養所で世話をしてもらっているからです。
天吾は父と馴染めない感情を子供の頃から抱えて生きてきました。
本作で天吾が初めて登場する章は、天吾が一歳半のときに彼に焼き付いて離れないイメージから始まります。
天吾の母は、天吾を産んだあとすぐに亡くなったと父から聞かされていました。しかし、天吾が持つ一歳半のイメージの中で、天吾の母は、半裸になり、硬くなった乳首を見知らぬ若い男に吸われています。
そのイメージが天吾に中で繰り返し起こり、イメージの強さによって、「発作」のようなものが起きると書かれていました。
それだから、何度も同じような「発作」に襲われるのかと思ったら、「発作」は天吾が初めて登場する章にだけ描かれています。
映画にもなった『ドライブ・マイ・カー』(2014)でも、北海道出身の若い女性ドライバーは、必要なこと以外しゃべらないという設定でした。
それはおもしろいと思って読み始めました。しかし、途中からは普通の人と同じようにしゃべるようになります。
このように、人物の設定が途中で変わってしまうことが村上の作品にはあります。
ともあれ、子供の頃から天吾を苦しめる母のイメージにより、天吾は大きな疑念をひとつ持ち続けています。NHKの受信料集金人をする父は、遺伝子的に、自分と似たところがありません。
生物学的な父が別のところにいて、天吾が一緒に暮らした父は、血のつながらない父ではないかという疑念です。しかし、それをこれまで、父に訊いたことは一度もありません。
千倉にある療養所にいる父の役目をしてくれた男を訪ね、「真相」を解き明かせれば解き明かそうというのが療養所訪問の大きな理由です。
顛末は本作をお読みになって確認してください。
認知症が進んでいる父は、天吾と実のある会話が成立しません。それでも、天吾の父として人生を過ごし、今、その黄昏にいる男の心境を想像し、重い気持ちになりました。
これは、物語の世界だけの話ではありません。自分の両親も、そして私自身も、「その時」になったら、どのような心境になるのだろうと深く考えました。
療養所にいるその男は、天吾が東京へ戻ったあと、ひとりでその療養所に残ります。息を引き取るまでそれが続きます。どのように、自分の心を保っていくのでしょう。
天吾が男がいる部屋を出ようとして男を見ると、男の頬に一筋の涙が流れています。その記述を読み、私は涙を堪えることができなくなりました。
置き去りにされる男の心境に自分が乗り移ったように、堪えようのない孤独に苦しめられました。
天吾の章のあとは青豆の章です。そしてまた天吾の章になります。何回かあとの章は「手渡されたパッケージ」という章で、ページ数にすると、878ページから895ページです。
この17ページに、男性器の「ペニス」の単語が7回、「おちんちん」が1回、「勃起」が18回登場します。あまりにも繰り返し登場するので、一度読み終わったあと、その単語がいくつあるか調べました。もしかしたら、数が多少違っているかもしれません。
天吾のアパートに、「ふかえり」という17歳の少女が突然訪ねてきます。彼女は深田絵里子といい、危険な宗教団体「さきがけ」の誕生に関わりを持つ大学教授の娘です。
途中で、「ふかえり」が深田教授夫妻の娘ではなく、「さきがけ」で「リーダー」をする男の娘と書かれる個所が出てきます。
私は予備知識を一切持たずに読んでいるため、最後まで読まなければ、そのあたりのことは断定できません。
ともあれ、その「ふかえり」が天吾を訪ね、天吾がまだ「おはらい」を済ませていないことを継げます。
彼女のいう「おはらい」が、天を切り裂くような雷鳴の最中に行われ、それえが描かれる過程で、上に数を挙げた単語が執拗に登場するのです。
松本清張(1909~1992)は作品で殺人事件を扱いますが、殺害場面を克明に描くことは一度もしていません。それがあったことを読者に知らせるだけです。
村上が殺人事件を扱う作品を書いたら、その場面を執拗に描くのではないでしょうか? これは、作家の資質の違いとなりそうです。
清張は愛欲の場面をほとんど描きません。その必要がどうしてもあれば、それがあったことを匂わせるだけで終わりにしたでしょう。
私はこれまで、村上の作品を数多く読んできました。その多くに性器や性行為の場面が描かれています。それを嫌って村上作品に近づかない人もいるはずです。
本作は残り半分ほどです。最終的には、天吾が青豆に「再会」し、彼らが二十年かけて溜め込んだ愛情を、行為によって確かめ合うことになるのでしょうか?
昨日読んだ中で、青豆は彼女にとって最後になるであろう「仕事」を成功裏に終え、それまで住んでいたアパートから別のアパートに移りました。そのアパートがあるのが、天吾と同じ高円寺です。
青豆と天吾が接近してきました。ふたりはそれにまだ気づいていません。それは、神の摂理によって起きていることでしょうか。