ここ一週間ほど、村上春樹(1949~)が書き、2009年と2010年に発表した村上12作目の長編小説『1Q84』を読むことに長い時間をあてています。
また、その作品について、本コーナーでこれまで四度取り上げました。今回もそれを取り上げるため、第五段になります。
これまでに全体の80%を読み終わりました。私はAmazonの電子書籍版で読んでいます。電子版のページ数はフォントの大きさによって変化します。
紙の本では、BOOK1からBOOK3までのページ数が次のような分量に定められています。これが公式のページ数になりましょう。
BOOK1 | 554 |
BOOK2 | 501 |
BOOK3 | 602 |
私の端末のフォントサイズは標準にしています。それによって示されたページ数で1369まで読み終えたところです。本作についてはじめに取り上げたときは、全体の20%の段階でした。ようやく、全体の五分の四まで辿り着きました。
本作には随所に、おそらくは村上が好んだか、あるいは、影響を受けたかの文学作品が登場します。そのひとつに、フランスの小説家、マルセル・プルースト(1871~1922)が、晩年の死の年まで執筆し構成した『失われた時を求めて』(1913~1927)があります。
この作品はフランス語の原文が3000ページ以上あり、ギネス世界記録に「最も長い小説」として認定されているそうです。
それに村上が挑んだわけでもないでしょうが、本作もなかなか長いです。
本作ではこの作品を知った「青豆(あおまめ)」という名の主要人物が、プルーストのこの作品を、「潜伏」する東京・高円寺にある新築マンションの一室で読むことを始めます。
青豆の下の名前がわかりませんでしたが、青豆を「調査」する牛河という男の「調査」により、「青豆雅美」という名であることがわかります。
製本された本作はBOOK1からBOOK3まで、前編・後篇の二冊、合計六冊で構成されています。私の記憶では、BOOK2までは、青豆と、もうひとりの主要人物である「川奈天吾」をそれぞれの章できっちり分け、交互に書くスタイルでした。
それが、BOOK3の途中からだと思いますが、ふたりの間に牛河が割り込む形で彼の章が定位置を得ています。
牛河は埼玉にある医師一家の家に生まれていますが、彼だけがはみ出し者のように、弁護士の道に進みました。
牛河は、医師一家の自分以外の人間は、中身のない、薄っぺらな人間たちだと軽蔑しているのです。
一時は、妻子を持ち、娘ふたりを私立の小学校へ上げるような生活を得ますが、それを失い、今は、東京・文京区小日向にひとりで住み、依頼された調査項目を、岩場にこびりついたら絶対離れない牡蠣のように、どこまでも執念深く調査する仕事に生きがいを感じています。
本作を読んで感じるのは、村上の人物描写です。登場する人物が主要な人物でなくても、必要であれば、眼に見えるように描写します。
はすっぱなしゃべり方をする若い女性には、「ちょっと」ではなく、「ちっと」といわせています。「ちっと待って」というように。
牛河は、山梨県の山村部に拠点を持つ宗教教団「さきがけ」から依頼された「調査」に全力を挙げています。モデルの教団がオウム真理教であろうことを隠しません。
それに牛河が全力を挙げざるを得ないのは、牛河の「調査」で問題がなかったはずの青豆の手で、教団の「リーダー」が死んだからです。
「ふかえり」こと深田絵里子という常識の枠外にいる17歳の少女が書いたと世間では認識されている小説が文芸誌の新人賞を受賞し、ベストセラーとなりました。
この「ふかえり」は、元大学教授の深田保の娘です。牛河の「調査」結果のひとつとして、「さきがけ」のリーダーが保であることが、さりげなく書かれています。
それに気づくまで、私は、「リーダー」が深田保と同一人物だとは考えていませんでした。「ふかえり」が教団施設をひとりで抜け出し、「ふかえり」を保護した、保の知り合いの文化人類学者上がりの「戎野(えびす)」も、まだ、保が「さきがけ」の「リーダー」だとは気がついていないかもしれません。
そういえば、途中から、戎野がまったく登場しなくなりました。
出来事はもっぱら、天吾と青豆、「ふかえり」周辺だけで起き、それに牛河の研ぎ澄まされた嗅覚で反応し、亀のような歩みで近寄りつつあります。
牛河は姿をくらました青豆を見つけ出さなければ、自分が教団によって殺され、教団施設で焼却処分されてしまうことを意識せざるを得ない状況に追い込まれています。
本作について初めて書いた時に書いたように、青豆と天吾は、千葉の市川にある公立の小学校で、3年と4年のとき、同じクラスでした。
そのふたりが20年後の今、運命に導かれるように「再会」のときを待っています。
これまでに一度、ふたりにだけ見える「ふたつの月」に導かれ、青豆が「潜伏」するマンションの3階から狭い通りを挟んだところにある児童公園の滑り台に昇り、月を見上げる天吾の姿を青豆が目撃しました。
部屋番号は「303」で、天吾が住むアパートの部屋番号と同じです。
青豆はその後、自分の子宮に命を宿していることに気がつきます。それが天吾との間に生まれつつ生命であることを確信します。
青豆と天吾は、10歳のとき、放課後の教室でふたりきりになり、そのとき、青豆が天吾の左手を右手で握っただけで、その後20年間、ふたりは別々の世界で生きてきました。
前回の本コーナーで本作について書いた時、17ページの間に、「勃起」という単語が18回登場することを書きました。
それが描かれた場面で、天吾は匿っている「ふかえり」に「おはらい」の必要性を指摘されたあと、激しい雷雨の夜、性欲の介在なしに、彼の人生において二度とないであろうほど完璧に勃起をした「ペニス」を、「ふかえり」の出来立てのような性器のようなものに挿入します。
そのとき、天吾の体は痺れ、身動きができません。現実と幻想のはざまで、10歳のときのイメージが現れます。教室にいるのは天吾と青豆のふたり。
天吾の左手を青豆が握った時、「ふかえり」の中で、天吾が激しい射精をします。その瞬間、青豆の中で定められた400の卵子のひとつと合体し、青豆の子宮でひとつの新しい命として成長しつつある、と村上は描きたいのだろうと理解しました。
本作の中の青豆は、プルーストの『失われた時を求めて』を一日20ページ以上読まないよう自分を律しています。そのペースを守ったら、それが読み終わるまでどれほどの日数が必要になるでしょう。
一週間ほどかけて読んできた村上の『1Q84』は今日明日にも読み終わります。続けて村上の『騎士団長殺し』(2017)を読むことをすれば、まだまだ、村上の世界に浸ったままになります。
それが読み終わったら、一年前に発表された『街とその不確かな壁』(2023)も読むことになるでしょうし。
そういえば、ヤナーチェク(1854~1928)の『シンフォニエッタ』(1926)を介して、天吾と青豆がどのように結びついているかまだ書かれていません。
本コーナーの何段目かで書いたように、高校2年の音楽会で、天吾が『シンフォニエッタ』でティンパニを演奏しています。
天吾が小学校3年から6年まで担任だった女性教師が、そのときの天後の演奏を鑑賞しています。同じ会場に、高校2年になった青豆雅美もいたのでしょうか?
その『シンフォニエッタ』が個人タクシーのカーラジオから流れ、それを聴く青豆は、運転手に促されるように、渋滞するタクシを離れ、首都高速の非常階段から下へ降りたことで、1984年の世界から「1Q84年」の世界に入り込んでしまうという設定です。
いずれにしても、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』が大きな鍵を握っていそうです。天吾と青豆は、まだそのことに気がついていません。
ともあれ、今日か明日には終幕を迎え、すべての謎が解かれることになります。