「原島嵩(はらしま・たかし)」という名前を見聞きし、創価学会の関係者ならいざ知らず、一般の人で「ああ、あの原島さんか」とすぐにわかる人はごく少ないのではないでしょうか。
一般人のひとりであるσ(^_^)私もまったく存じ上げていませんでした。その死亡記事を載せた記事(『週刊新潮』2008年7月24日号)を目にするまで。
「創価学会の理論的支柱」(元創価学会広報部副部長・小川頼宣氏の証言)的人物であるのなら、その訃報を主要新聞が取り上げて然るべきと考えますが、なぜか、どの新聞にも死亡記事は載っていないそうです。その原島さんがこの6日お亡くなりになっています。享年69歳だそうです。その関連で調べていましたら、父親の宏治氏は55歳で亡くなっています。しかもウィキペディアには「急死」とあり、何か引っかかるものを感じます。なお、この宏治氏は、公明党の初代委員長を務めているそうです。
私はまったく知識を持ち合わせていませんでしたが、そもそも創価学会という新興宗教団体は、日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の信徒団体なのだそうですね。
記事によれば、嵩氏が創価学会と関わりを持つきっかけは氏の両親の影響を受けてのことのようです。当時、一家は東京の蒲田に住んでいたようですが、両親は揃って教師をされていたそうです。
嵩氏が生まれつき病弱だったことから、まずは母親が日蓮正宗に入信します。その後、当時は創価教育学会と呼ばれていた団体の活動に関わりを持ち、両親は団体の幹部となります。そして、先ほども出てきました父親の宏治氏は、昭和39(1964)年に公明党の初代委員長に就任したというのです。
両親の信心のお陰で嵩氏の健康が回復できたかどうかは知りませんが、熱心な宗教活動をする両親の下で育った嵩氏も昭和22(1947)年に創価学会に入信し(入信年齢は9)、団体の中で徐々に頭角を現していくことになります。
昭和29(1954)年頃だといいますから、嵩氏16歳の頃のことです。同団体の現在の名誉会長である池田大作氏と出会っています。歳は、池田氏がちょうど10歳上だそうですが、意気投合したのか、池田氏はその後、嵩氏を自分の弟のように可愛がったということです。
人間誰しも、高い地位を得たなら、それを維持することに力を傾けがちです。嵩氏は30歳の若さで創価学会の教学部長に就きますが、たとえば自分の地位を守ることにだけ懸命な官僚のように、嵩氏が池田氏に付き従っていたなら、安穏な生涯を送れただろうと思います。
しかし、嵩氏はまじめな人だったようで、それが嵩氏の人生を暗転させてしまいます。
少し離れたところにいることで、その人間の暗部にまでは気がつかないことがままあります。嵩氏の場合は、自分を弟のように可愛がってくれる池田大作氏に近づきすぎたため、次第に池田氏の言動に疑問を持ち始めます。それでもはじめのうちは、「池田が悪いことをするはずがない。疑問を持つのは自分が至らないから」(元創価学会芸術部書記・古谷博氏の証言)と自分を戒めることに努めました。
おそらくは自分の中で強い葛藤があったのでしょう。夫人の証言によると、酒量が目に見えて増えていったそうです。
それでもまだ軸足は創価学会にあったようで、昭和44(1969)年、創価学会を批判する藤原弘達氏の著書『創価学会を斬る』の出版を巡る騒動を契機に、「将来を見据え、マスコミや官僚、外交官、教育分野などに幅広く人材を送り込む」(元創価学会広報部副部長・小川氏の証言)必要性を痛感し、その考えを原島氏を中心に実現していったそうです。
漏れ聞くところによりますと、今現在、上の証言にある“重要拠点”のマスメディアや中央省庁、教育現場には、創価学会の息のかかった“人材”が多数巣食っているそうですが、その原点は、この頃にあったことを、遅ればせながら私は認識しました。
自分を責めることで池田氏に忠誠を誓いつつ、嵩氏は良心の呵責に苦しみの度合いを増していきます。おそらくはその頂点となったのが昭和55(1980)年です。
「信仰の根本である御本尊を模刻(もこく:原本をひきつつして彫ること=広辞苑)したことを知って悩み、これは許せない」(夫人の冨久子さんの証言)との思いが決定的に強まり、その年の2月、池田代表に6時間にわたって自分の疑問をぶつけたそうです。しかし、その思いは聞き入れてもらえず、その日を境に無視されるようになったようです。
その後、原島さんは学会の内部告発を外部に始めたことで、同年8月、創価学会から除名処分されます。
途中で出てきました藤原弘達氏が創価学会を批判するような行動に出始めたのは1962年頃のことでしょうか。その62年には参院選があり、前年に結成された公明政治連盟が選挙で15議席を得て公明会に変更し、さらに64年には現在の公明党となり、その初代委員長に父親の宏治氏が就任しています。ただ、11月17日に就任し、12月9日に急死しています。あまりに慌ただしい死去の印象です。
嵩氏は30代の頃から糖尿病を患い、10年ほど前には精神が不安定になるなどしたようです。ここへ来て批判を強めている元公明党委員長の矢野絢也氏も常に誰かに監視されていると発言していますが、嵩氏も精神のバランスを失うほどの精神的圧迫を受けていたことが想像されます。
公明党のバックボーンである創価学会信者の票に頼っているのが自民党です。両党が結託したのは1999年に誕生した小渕内閣(小渕恵三)からだそうです。
いつの時代も完璧であったことはありませんが、その1999年を境に、日本のテレビ放送業界が狂っていったのは間違いありません。これは放送業界に限らず、日本の中枢にある勢力の“人材”が巣くい始めたことが原因で、急激に彼らに国が乗っ取られている危惧を強くしています。例の作られた“韓流似非ブーム”にしても、自公連立政権がなければ日の目を見ることもなかったでしょう。
その自公連立見直しという歓迎すべき動きがあるそうです。このことについては、明日の本コーナーで取り上げてみたいと思います。
今の自民党に願うことは、得票や議員数を落としても、公明党との関係を断ち切って欲しいということです。公明党=創価学会と手を組む限り、日本に明るい未来はありません。