本日は、朝日新聞に掲載されている対談「どうする少子化」に着目して少しばかり書いてみることにします。
といって、私が「どうすれば少子化を解決できるか?」といったようなことを論ずるつもりはまったくありません。第一、私は未婚で目下のところ結婚の予定がないため、それを大上段から論じられる立場にもありません(´Д`;)
そんな私に許される立場があるとするなら、社会の底辺から上流社会を見上げ、ちゃちを入れるぐらいが関の山です。
今回のテキストとなる対談をされているのは、漫画家の倉田真由美さんと通販会社「ピーチ・ジョン」社長の野口美佳さんのお二人で、倉田さんは1男、野口さんは3男1女のママさんでもあるそうです。
私は「勝ち組・負け組み」といういい方は嫌いで普段は全く使いませんが、ここで敢えて使わせてもらえば、「少子化」についての対談という場では、お子さんの数がより多い野口さんの方が“勝ち組”ということになりそうです。だからでしょうか、紙面に掲載されているお二人の写真を見比べてみても、野口さんの方に精神的な余裕が感じられます。
また、対談の内容にしても、倉田さんは余裕を失っています。
この人は多くの場合そうなのですが、男女の問題を語らせると、真っ先に「男がダメ」といういい方が飛び出します。今回も対談記事の冒頭、司会者の山本修嗣(朝日新聞記者?)から「結婚しない男女、子供を作らないカップルが増えています。恋愛見、結婚見は変わっているんでしょうか」と振られると、「待ってました!」とばかりに以下のような自論を披露しています(太字強調、下線は私の判断で入れています)。
いい男が少ないですね。いい女は増えているから必然的に女が余ってしまう。「いい」とは、うまく社会に適応できる能力があるとか、仕事ができるとか、いろんな物差しがあると思うんですけれど、能力を発揮できる場が増えて女の人の「いい」度は相当上がっている。その割りに男性は進化していない。
端的にいえば、「いい女に見合うだけのいい男がいないから、女は結婚に踏み切れない。だから日本は少子化の度合いを加速している」ということになるのでしょう。でも、この「いい」の尺度に、私は相当程度の疑問を持たざるを得ません。
では、と、倉田さんのおっしゃる「ダメ男」の逆をいけば「いい男」とやらになれるんですか? すなわち、その一例でいけば、「社会に対する適応力が抜群で仕事がバリバリできる男」。確かに、こんな男であれば、生きていくのには困らない、イコール経済力があって生活は安定し、結婚するには打ってつけの男には違いありません。
ただ、それだけで幸せな結婚生活が待っていると考えるのだとしたら、人生観が単純すぎはしませんか?
話は脱線しますが、私は元来ヘソ曲がりにできているのか、社会規範のレールに乗っかって生きることを良しとしない考え方を昔から一貫して持ち続けています。だからでしょう。見る映画にしても、規範から外れた主人公にのみ感情移入し、シンパシーを持ちます。
本コーナーでもたびたび書いています『タクシー・ドライバー』の主人公トラヴィスがそうであり、先日書いた『シベールの日曜日』のピエール、『ある子供』のブリュノなどなど、いずれも、倉田さんの目から見たら一遍で「ダメ男」のレッテルを頂戴してしまいそうです。ついでに頂戴できるのであれば、かくいう私自身も「ダメ男」の末席を汚している者の一人ということにさせておいてください(^_^;
トラヴィスは毎日ニューヨークの街で客待ちのタクシーを走らせている中、一人の女性を見初めます。ベツィという少し冷たい雰囲気を持つエリート女性です。トラヴィスは彼女を喫茶店に誘い出し、やがて一緒に映画を見に行くまでにこぎつけますが、その時に見た映画というのがポルノ、それも精子と卵子(卵細胞)がどうしたこうしたという映画で、一遍で彼女を呆れさせてしまい、たった一度のデイトで捨てられてしまいます。
トラヴィスに少しでも「社会適応能力」が備わっていたなら、最初のデートにその映画は選ばなかったでしょう。でも、そんなことに思いもしなかったトラヴィスは、「社会適応能力」が欠けていたと非難されても仕方がないことになります。
今これを書きながら、もう一人の「ダメ男」を思い出しました。それを教えてくれたのは、以前にも本コーナーで取り上げました「知るを楽しむ」(NHK教育)の2005年12月火曜日「私のこだわり人物伝・幻影城へようこそ 江戸川乱歩」の“こだわり人”大槻ケンヂさんでした。
ついでまでに、私はその4回シリーズすべてをPC録画し、4回目が終わった翌々日には私製DVDを焼き上げてしまいました。それほどまでに、私はこの乱歩番組に惚れ込んだ、といいますか、大槻ケンヂさんが論じる“乱歩作品論”に惚れ込んだのでした。

中でも私がDVDにしてまで残したいと思ったのは第1回の『屋根裏の散歩者』と第3回の『蟲』です。いずれも“元祖ひきこもり”のような青年が主人公で、大槻ケンヂさんが語る『蟲』の主人公・柾木愛造(まさき・あいぞう)にもこれまた心底しびれましたね。
親の遺産で暮らす内気な青年・柾木愛造は、自分を一切否定しない自分だけの世界の中に生きています。その柾木が、一世一代の恋をすることで外界と接触を持たざるを得なくなります。しかし、恋した相手は、幼なじみとはいえ、今では売れっ子女優の木下芙蓉(きのした・ふよう)です。どう考えても、柾木とは相容れない世界の住人です。
私はこの小説は読んだこともなく、また、映画も見ていませんので詳細はわかりませんが、初めから成就し得ない相手でした。案の定、すぐに破綻してしまったのでした。ストーカーの如くに追い掛け回した挙句に、柾木流の“愛の告白”として彼女をこの世から永遠に葬り去ってしまったのです。
その顛末を見届けた上で、大槻ケンヂさんは次のように独自の解釈を加えます。
いってしまえば、ボクは柾木(のどうしようもない不器用さ)が可愛いんだな。柾木は、恋した女を殺すことで初めて心が落ちつくんですよ。なぜか? しゃべらないから。彼女は、自分を脅かす社会そのものだった。その彼女が自分を一切否定しなくなった。その時、彼は初めてホッとしたんだと思うよ。やっと自分だけの世界に戻って来れたから。
これぞ、究極の「ダメ男」というべきでしょう。
私の関心は、小説のあらすじには向かいません。関心が向かう先はこの柾木という男そのものです。その男を江戸川乱歩は次のように描写しています。
彼のこの病的な素質は、一体全体どこから来たものであるか、彼自身も不明であったが、その兆候は、既に、彼の幼年時代に発見することが出来た。彼は人間の顔さえ見れば、何の理由もなく、眼に一杯 涙が沸き上った。そして、その内気さを隠す為に、あらぬ天井を眺めたり、手の平を使って、誠に不様な恥かしい格好をしなければならなかった。隠そうとすればする程、それを相手に見られているかと思うと、一層おびただしい涙でふくれ上って来て、遂には、「ワッ」と叫んで、気違いになってしまうより、どうにもこうにも仕方がなくなる。といった感じであった。
昔に書かれた作品ですが、充分現代にも通用するような人間描写であると思います。
私が今回のシリーズで改めて考えさせられたのは、乱歩という作家が描いて見せた人間の魅力である、ということです。そして、『屋根裏の散歩者』の郷田三郎にしろ、『蟲』の柾木愛造にしろ、そこに自分に近しいものを感じてしまうだけに、どうしようもないシンパシーを抱くことになるわけです。
おっと、今回のきっかけとなった倉田さんと野口さんの対談はどこかへ吹っ飛んでしまいましたね(^O^;
私がいいたかったことは、たとえば倉田さんが主張するような「いい男」は「本当のいい男」なのだろうか? ということです。
以前、こんな話を何かで読んだ記憶があります。ある同窓会での話で、彼女が中学時代に片思いをしていた男性に久しぶりに会ってみると、その男性は今では立派な銀行員になっていたそうです。が、会費の札束を手馴れた手つきで数える姿を見た瞬間、一遍で恋が冷めてしまったという話です。
意味するところは、彼女が恋していたのは世俗にまみれない彼の姿であったのに、久しぶりに会ったかつての意中の男性は、世慣れて、世俗にどっぷりと浸かってしまっていた、ということになりそうです。
私は男なので女性のその辺りの細やかな心境は想像するしかありませんが、まったくわからないでもありません。そういう自分自身、安定だけを求め、レールから一歩も踏み外そうとしない人間は男も女もなく興味が持てません。
最後に対談に話を戻せば、野口さんはキャリアがあり子沢山ということもあってか、終始落ちついた受け答えをしているのに対し、倉田さんは夫と別れ、子供を実家に預けて働いているという負い目があるせいか、今回の対談でもキリキリしているように感じられます。
第一、倉田さんご自身が「女性がもっといろんな生き方を自由に選べる世の中になったらいなあと思う」と発言しておきながら、世の男性陣に対しては、十把一絡げで「いい男」という単一の鋳型にはめるというのは自己矛盾というものでしょう、と一応批判を加えておくことにします。
男だっていろんな生き方を選びたいもんなあ、、、(´д`)