不幸が不幸せとは限らない・場合も

幸福は誰もが望むことです。

最近読んだ短編小説の中に、それとは逆の考え方が書かれていました。もっとも、それが有効に働く人は限られるだろうと思います。

これは、本コーナーで最近取り上げていますが、Amazonの電子書籍で、該当する書籍であれば読み放題できるKindle Unlimitedを12月中旬まで利用できる権利を得ました。

これを利用し、阿刀田高1935~)が書いたコラムを一冊にまとめた『頭は帽子のためじゃない』を読みました。

その阿刀田の短編集もKindle Unlimitedで読んでいます。1980年から82年(当年は一作品だけ)にかけ、『野生時代』19741996 4月号)に掲載された十二編の作品を一冊に収録する『異形の地図』1984)です。

その中の一作、『分水嶺(ぶんすいれい)』(1981年5月号)に、これから書くことが描かれています。

阿刀田の書く小説がすべてそうだといい切る自信はありませんが、多くは一人称で書かれているように考えます。本短編集も、すべて一人称です。

出来事を見つめる「私」はひとりの男で、多分に、阿刀田の分身を思わせます。

本作の「私」は、おそらく中年の男で、文章を書く仕事をしています。男は、岡山から出雲へ向かう伯備線の下り列車の車中にいます。

PR誌のための取材旅行に同行するのは、田島保子(たじま・やすこ)という30前の女性です。男と保子は、列車で出雲大社を目指します。

保子は、案内役と写真のちょっとしたモデルを兼ねています。彼女は下膨れした古典的な容貌を持ちつつ、見方によれば当世風のバタ臭い表情に見えます。男は、巫女に扮してもらう構想を立てています。

列車の長旅は眠気を誘います。男がうつらうつらし始めた頃、背後の席から、男ふたりの話し声が聞こえてきます。話の様子から、列車で隣り合わせたのがわかります。ふたりの話は終わらず、やがて、ひとりの身の上話になります。

その男は、出雲大社に職場が変わるのだとか。コンピュータに詳しいことから、縁結びのソフトを作るというのです。

その男が次のようなことをいいます。

社会的にりっぱな仕事をした人の中には、悪妻を持つ人が多いと、これ、ご存知じゃないですか

阿刀田 高. 異形の地図 (角川文庫) (Kindle の位置No.2637-2638). 角川書店. Kindle 版.

居眠りを始めた「私」の背後から聞こえてくる話と、自分の夢が混濁します。夢の中で、「私」が相手の話の聞き手に変わってしまいます。

話し手は、いつの間にか高校時代の同級生です。数学がべらぼうにできた男でした。

数学が得意な男は、こんなことをいって「私」を混乱させます。

今日現在で〇・八四六二五九だ

阿刀田 高. 異形の地図 (角川文庫) (Kindle の位置No.2647). 角川書店. Kindle 版.

この数字は、「幸福な結婚」に対する「不幸な結婚」の比率だといいます。

これは、結婚に限ったことではないでしょう。

夢から覚めた「私」が保子と、夢の続きのような話をします。夢の中で、同級生から聞いた話です。

世の中にはいくらか不幸な結婚があったほうがいいんだよ

阿刀田 高. 異形の地図 (角川文庫) (Kindle の位置No.2719). 角川書店. Kindle 版.

自分の口から飛び出した話に、自分で戸惑います。それまで、自分でそんな考えを持った自覚がなかったからです。それでも、自分の脳味噌が夢を見させている以上、無意識の領域に、そんな考えを持つ別の自分が存在するのだろう、と自分を納得させます。

私が最も敬愛する画家に、17世紀のオランダの画家、レンブラント16061669)がいます。レンブラントの後半生は、幸福とはいえない状況です。

最愛の妻、サスキアには若くして先立たれました。のちに、レンブラントと共に生きた女性、ヘンドリッキェとも死に別れます。最後には、愛息のティトゥスまでもが彼の前から消えてしまいます。

レンブラントは、屋根裏のような部屋で絵を描くような境遇となります。世間的に見れば幸福ではありません。しかし、そうなってからのレンブラントの作品にこそ見るべき作品が数多くあるのです。

Rembrandt, Self-Portrait

幸福なままの人生であったら、人の心に強く残る作品は生まれなかった、かもしれません。

ごく普通の人生を送る人なら、幸福であることに越したことはありません。ただ、何かを創作する人であれば、自分が幸福であることに不安に感じる程度の感覚が欠かせません。

こんなことを考えさせた阿刀田の短編小説の一節でした。

気になる投稿はありますか?

  • 京都ブランドのデオドラント化京都ブランドのデオドラント化 本日の朝日新聞に、京都の街に愛憎を併せ持つ(?)井上章一氏(1955~)に語ってもらった「やっぱり『京都ぎらい』」が載っており、興味深く読みました。 副題は「観光地化とともに消えた性的におい」です。この副題について書かれた部分に、私は強くひかれました。 人が持つ五感で性的なものに直結するのは「におい」ではないか、と私は考えます。 前々回の本コーナーは、松本 […]
  • 蜜柑の缶詰の蜜柑の謎蜜柑の缶詰の蜜柑の謎 NHK総合の番組に「チコちゃんに叱られる!」という番組があるのを知っています。あいにく、私は見たことがありません。 新聞のテレビ欄で確認する限りでは、素朴な疑問を解決するのが番組のコンセプトであるように思われます。 番組とは関係なく、ある本を読んでいて、それに通じる素朴な疑問と答えを得ました。 今私が読んでいるのは、作家でエッセイストの山口瞳(1926~1 […]
  • 凄みの効いた馬券にまつわる思い出凄みの効いた馬券にまつわる思い出 あなたは馬券を買ったことがありますか? 私はありません。 この馬券。正しくは「勝ち馬投票券」というそうですね。面倒くさいので、本ページでは馬券で通します。 公営競馬において、勝ちそうに思える馬にお金を賭けて投票し、予想が当たれば、当たった人でお金を分け合うのが、馬券のざっとした仕組みになりましょうか。 たまに、人気のなかった馬が一着になり、その馬に掛けた人 […]
  • 乱歩の随筆に登場する読みにくい苗字乱歩の随筆に登場する読みにくい苗字 なかなか読めない苗字というのがあります。読むことはできても、それが正しい読み方かどうかわからない苗字もあります。 たとえば、「角田」という苗字です。これは何と読むのがよいのでしょう。「つのだ」か「かくた」か。あるいはもっと別の読み方もあり、どれもが正解かもしれません。 私はこのところ、江戸川乱歩(1894~1965)の随筆を朗読し、自分の声を録音するのを楽しみと […]
  • 似非人権派の落とし穴と雲隠れ似非人権派の落とし穴と雲隠れ 松本清張(1909~1992)の短編小説に『一年半待て』(1957)があります。 これを読むと、いろいろなことを考えさせられます。日頃、弱い者の味方になり、素晴らしい人だと周囲からいわれているような人ほど、自分がしていることへの自信が揺らぐきっかけになるかもしれません。 細かいことを書いてしまうと、まだ読んでいない人の楽しみを奪うことになりますので、粗筋を書くこ […]