本日の朝日新聞に、京都の街に愛憎を併せ持つ(?)井上章一氏(1955~)に語ってもらった「やっぱり『京都ぎらい』」が載っており、興味深く読みました。
副題は「観光地化とともに消えた性的におい」です。この副題について書かれた部分に、私は強くひかれました。
人が持つ五感で性的なものに直結するのは「におい」ではないか、と私は考えます。
前々回の本コーナーは、松本清張(1909~1992)の『喪失の儀礼』(1972)について書き、そこでも、人間の感覚を刺激せずにはおかない「におい」に触れました。
井上章一氏は京都生まれですが、同じ京都であっても、市の中心部の「洛中」と、中心部から離れた「洛外」は、洛中に住む人によって、差別化されてきたそうです。
井上氏は洛外生まれであったため、洛中の人間がそれを持ちながら、自分では意識していないかもしれない「選民意識」のようなものがよく見えたでしょう。
彼らには、その選民意識を鼻にかける「いやらしさ」があり、洛外で育った井上氏にはそれに耐えられないところがあり、それが井上氏の『京都ぎらい』の書籍類に現れているといえましょう。
話が脱線することをお許しください。
昨日(21日)は夏の高校野球の準決勝が行われ、仙台育英と慶応が決勝に駒を進めました。私は昨日の午前中は出かけていたので、試合は途中からテレビの中継を見ました。慶応は神奈川の高校であるにも拘わらず、甲子園球場のアルプススタンドが応援する人で膨れ上がっていました。
実況のアナウンサーによれば、関西に住んでいる慶応大学の卒業生が、その付属高校ということで、多数応援に駆けつけているということでした。
慶応の関係者が持つ愛校精神は、京都の洛中に代々暮らす人が持つ「選民意識」とも近いところがあるのではありませんか? 井上氏が洛中の人が鼻持ちならないと感じるように、慶応関係者のそれにも、同じような感覚を持つ人もいることでしょう。
新コロウイルスは、未だにその存在が証明されていません。それなのに、問題のウイルスは存在することにされただけでなく、恐るべきウイルスだとして、感染症法の分類を2類よりも厳しい1.5類相当にされていました。
それが、今年の大型連休が明けたタイミングで、季節性インフルエンザ並みの5類相当に変更されました。
その変更が功を奏すように、騒動の最中は遠のいていた観光客の足が、全国の観光地へ向かっていると報道されています。日本有数の観光地である京都へも、内外の観光客が戻る傾向にあるでしょう。
30年ほど前、JR東海の広告に「そうだ京都、行こう。」(1993~)のキャンペーンが始まりました。
これが京都観光ブームの引き金となり、それ以前は男性が愉しむ場所であった京都が、女性観光客へも門戸を開くことになりました。
そのブームによって起きた変化について井上氏は、京都の「街自体のデオトラント(脱臭)化」としています。
井上氏がおっしゃるには、明治大正期の京都の街には、性的なにおいが強く残っていたそうです。当時の雑誌が京都の街を取り上げると、エロティックな気配を抜きにはできなかったようです。
井上氏が建築学科の学生だった45年前のことが語られています。
「京町屋」の調査をする過程で、「数寄屋造り」の家を訪れると、そこに暮らす老婦人が「数寄屋ゆうたら、お妾さんのお家やな」とこともなげにつぶやいたりしたものだそうです。
学問が建築学の面から数寄屋に迫ろうとすると、造形的なアプローチが中心となるのでしょう。
しかし、どんな造形的な意味を持つ建物であれ、生きた人がそこにいたわけで、それを抜きに考えることはできないはずです。
そうであるべきなのに、学問の世界は、京都の街の遊郭や花街(京の花街)、ましてや妾宅などには触れたがらないそうです。
同じことが、京都観光が「ブランド化」されたことで起きた変化にもいえます。
女性観光客を相手にすることが相対的に増えたことで、京都の街が持っていた性的な部分が、目に触れないようにされてしまいます。旧い歴史を持つ街であることに変わりがありませんが、歴史の中には、性的な臭いも漂っていたでしょうに。
それが、井上氏のいう京都の街の「デオドラント化」です。脱臭剤で抜かれたように、街が持っていた「性的なにおい」が消えてしまったということです。
人の営みには、様々な葛藤や諍(いさか)い、色恋沙汰、嫉妬、憎しみなどなどが、離れがたくつきまとうものです。それを、上澄みだけ掬(すく)って見せるのが学問の世界で、そこから抜け落ちた部分にこそ、生きた庶民の実像があるといえましょう。
京都の洛中に暮らす人が洛外の人をある意味蔑むのも、人間が持つ差別意識の表れといえ、昔も今も、そしてこれから先も、生身の人間からは消え去らない感情でしょう。
良いも悪いもなく、人間という生き物はそんなものです。
それを見ずに、上辺の綺麗さや、知的な感覚だけで物事に触れていたら、本質を知らずに終わるだけです。
だからといって、観光のスタイルが変わり、女性観光客を性的なものに向かわせることは考えにくいです。これから先も「そうだ、京都行こう。」式の観光キャンペーンは続けられるでしょう。
個人ができることがあるとすれば、一人ひとりがよく考え、知ろうと思ったら、自分で知る努力をすることです。
これは、世の中すべてのことにいえることでしょう。