昨日(23日)、夏の高校野球の決勝戦は、二連覇を狙った仙台育英と107年ぶりの優勝を目指した慶応とで争われました。戦前の予想は、仙台育英に分がありましたが、慶応の優勝で幕を閉じました。
私は途中からテレビの中継を見ました。その時点で、慶応が3対0とリードしていました。その後、仙台育英が2点取り、3対2と拮抗した展開となりました。
私はそのままテレビの中継を見られなかったため、4回裏の途中から録画を開始しました。再び中継を生放送で見始めると、私が見ていなかった間に慶応が5点追加し、慶応が8対2とリードを大きく開けていたのには驚きました。
録画してあったので、試合が終わったあと、慶応の得点場面を確認しました。
どんな試合でも、分かれ目となるような「あや」があります。
仙台育英は、5回の守備から、投手を先発の湯田投手から背番号1をつけた高橋投手に換えています。迎えた最初の打者を二塁ゴロに打ち取ったかと思いきや、二塁手が処理に手間取る間に、打者が一塁にセーフとなります。
このときの守備にしても、三塁側が騒然としていたことで、野手がいつもの守備ができなかった結果といえましょう。
二番打者と三番打者をアウトに取っていますので、最初の打者を打ち取ることができていたら、慶応の5回表の攻撃は三者凡退で終わり、致命的な5点が加点されることがなかったことになります。
2アウトから慶応が適時打で2点追加したあと、次の打者はセンター方向へフライを打ち上げました。その打球をセンターとレフトの選手が追い、ふたりが交錯することで、捕球できず、2点が追加されています。
仙台育英が前年の覇者らしくない戦いをしたように見えます。が、慶応を後押しするスタンドの応援が、仙台育英の歯車を狂わせたといえましょう。
試合後、慶応の森林貴彦監督(1973~)へのインタビューがありました。終始落ち着いた紳士的な対応に感心しました。森林監督は控えめで、自分たちの力と「プラスα」によって勝つことができたと語っていました。
この「プラスα」は、三塁側を圧倒的な数で埋めた慶応の控え選手や父母、そして、慶応高校の生徒ばかりでなく、慶応大学のOB、OGらが、一体となって繰り広げた応援です。
テレビの中継を見ていてもその応援ぶりの凄さがわかりました。しかし、球場で試合を生で見たなら、それがどれほど「異様」なものであったか実感できたでしょう。
慶応の応援ぶりについては、Yahoo!ニュースでも扱われています。
同様の記事はほかにもあり、その記事のコメントにあったのだと思いますが、レフトスタンドで観戦した人のコメントによると、周辺にいた慶応ファンは、相手打者の三振やミスプレーにも大歓声をあげ、痛烈な野次を飛ばしたりしていたそうです。
こうした行為は、それが高校野球の試合であっても、それほど珍しいことではありません。
本来であれば、高校生の部活動の試合が行われているわけで、それを観戦する大人には、それなりの節度が求められるところです。
そうはいっても、自分が応援するチームの応援には、ときに大きな声も出てしまうでしょう。
慶応の応援が記事になり、それに多くの人がコメントを寄せるのは、応援の規模が並外れて大きかったからです。
私も、4回裏から試合を録画し、オンタイムで見ていましたが、点差がつき、それでも慶応の異様ともいえる応援が続き、途中で録画を止め、テレビで見るのも止めようかと考えました。
しかし、これもひとつの出来事の記録になると考え、録画と視聴を、試合ばかりでなく、閉会式の中継が終わるまで続けました。
試合を戦った両チームの選手は、ルールに則り、最後まで戦っています。
この試合にケチをつけるところがあるとすれば、慶応を応援する大人たちの「常軌を逸した」応援ぶりにあったといえましょう。
私は高校野球が好きで、地元の地方大会は、球場に足を運ぶほどです。今、当地では3年生が抜けた1、2年生による新チームによる秋の大会が始まっています。
私はその試合を見るため、すでに一度球場へ足を運びました。
こんな風に、高校野球には関心を持ちますが、昨日の慶応と仙台育英のように、片方の異様な応援風景はほとんど見た記憶がありません。
似たようなところでは、創価学会が経営母体の創価高校が甲子園に出たときの応援があるぐらいです。
高校野球の試合では、時に判官びいきが起き、負けているチームが追い上げると、球場全体が自然発生的に応援に回ることが稀にあります。
しかし、昨日の場合は、試合開始当初から試合が終わるまで、慶応の応援が三塁側を中心に続きました。
テレビ中継に写るバックネット裏の一番前の席は、少年野球チームのために設けられています。
応援が自然発生的に起これば、少年たちも自然に拍手をしたりする様子が見られます。昨日の場合は、少年たちも面食らったのか、慶応への応援はしていませんでした。
津波のような応援の中でプレーした仙台育英の選手は、平常心を保つのが難しかったでしょう。5回の守備にしても、何でもない外野フライを捕球できず、致命的といえる守備になってしまいました。
これも、慶応の異様な応援に影響されてのことでしょう。
人々の熱狂は怖い面を持ちます。一人ひとりは各人の感情によってそれを発散していると考えられますが、それが他者によって増幅されると、自分の感情がそれに共振し、それが繰り返されることで、増幅現象は恐ろしいほどに膨れ上がることがあります。
昨日、甲子園球場で慶応を応援した人が、試合の様子を記録した映像をあとで見たとき、自分が応援の渦中にいたことを客観的に見ることもできます。
あとでそのときのことを思い出した時、どのような感想を持つでしょうか。
どこまでが自分自身の感情で、どこからが自分以外の感情に共振した結果か、自分でもわからなくなることもあるでしょう。
先の大戦で結果的には敗戦して酷い辛酸をなめさせられた日本人は、時の軍部とマスメディアに戦意高揚を煽られ、勝ち目のない戦争に引きずり込まれました。
その姿が、昨日の慶応の応援風景に被らないでもありません。
個々人はその人なりの善意を持ちつつ、それが群衆の渦に飲み込まれると、巨大な脅威に変わることがあります。
次にまた、慶応が甲子園の大会へ駒を進めることがあれば、応援がどのようなものになるか、第三者の眼で、興味深く観察することにします。