Amazonの高ポイントキャンペーンにつられてまとめ買いした村上春樹(1949~)の作品も、残り少なくなりました。昨日は、15冊中の13冊目になる『アフターダーク』(2004)を読み終えましたので、それについて書いておきます。
本作は、村上の長編小説に分類されますが、分量は多くなく感じました。描かれ方は独特です。舞台は晩秋の東京で、おそらくは渋谷の街を中心に、都内の数カ所で同時進行する出来事を、カメラを切り替えるように描写します。流れる時間はリアルタイムで、各章のはじめには、丸い時計の文字盤を表記する入念さです。
物語の始まり午後11時56分。終わりは翌日の午前6時52分です。
私が前回読んだ『スプートニクの恋人』は、それまでの村上のスタイルだった一人称を主軸に、ほかの登場人物の一人称や、三人称の表現を試みています。
今回ははじめから終わりまで三人称です。
作家それぞれで、表現スタイルを持つでしょう。
村上の場合は、主人公に自分を反映させる必要があるため、どうしても一人称が必要だったのだと思います。主人公が自分に近い人間であれば、普段自分が考えることを、小説の中の主人公を使い、思う存分話させたり、考えさせたりすることができるからです。
他方、物語重視の作家は、一人称では描きづらくなります。たとえば殺人事件を扱う作品の場合がそうです。誰かの視線に固定されてしまいます。それが罪を犯す人間の視点になれば、犯罪を起こす心理を描くことに限定されます。そしてまた、捜査員の誰かに固定されれば、犯人の心理を推理する描き方を求められる、といった具合にです。
どちらにしても、描くことが窮屈になるでしょう。
その点、三人称で書けば、客観的に全体を見渡せ、必要な時は、それぞれの人間の心理を描くこともでき、自由度が増します。
本作で村上がどうして三人称を選んだのかは本人に教えてもらうしかありません。ですからここから先は素人の私の勝手な推測です。まったく違うかもしれません。
そう断ったうえで私が考えたのは、本作で最も重要なキーパーソンを描くためには、どうしても三人称にするしかなかったからではないか、です。
そのキーパーソンは、21歳の浅井エリという女性です。この物語の中で、エリは一言もしゃべりません。登場してきたときから変わっています。自宅の自室にあるベッドの上で昏睡状態です。以来、何度となく彼女が登場しますが、「目覚める」のは一度だけで、あとは意識を失ったように眠り続けます。といって、体の具合が悪いわけでもありません。
こんな本作ですから、一人称の「僕」や「ぼく」を登場させてみても、眠り続けるだけのエリとは、交渉の持ちようがありません。「僕」がエリに話しかけることはできても、エリがそれにまったく反応しなければ、会話は成り立たちません。「僕」にできる残されたことは、「どうしてエリは目を覚まさないのだろう」と想像することだけです。
エリは、東京郊外の住宅地に、両親と妹の4人で暮らしています。暮らし向きは豊かです。妹のマリは2歳下で、大学の1年です。エリは器量に恵まれ、子供の頃からモデルの仕事をしています。今は金持ちの女の子が行く女子大に通いながら、モデルの仕事をしています。
何不自由ないエリは、2カ月前、夕食のあとに「眠る」と家族に告げ、以来、2カ月、生理的なことと、最低限の生命維持のための食事を、家族に気づかれないように済ませる以外、眠ることだけに没頭しています。
「そんな馬鹿な」と思っても仕方がありません。これは村上が想像して書いた小説です。小説であれば、どんな馬鹿げたことも許されます。
村上はエリを描くとき、別の不思議も用意します。
エリが眠る部屋にはテレビが置かれています。人々が寝静まった時間、突如テレビのスイッチが入ります。画面は、放送が終了したあとのノイズで始まりますが、しばらくするとノイズが消え、あるものを映し始めます。
それはがらんとした部屋です。部屋には、木の椅子がひとつ置かれ、茶色のスーツを着た男が、膝に両手を載せた格好で背筋を伸ばして座っています。男のスーツには薄く埃が積もっています。男の顔にカメラが切り替わると、白く精密なマスクに覆われたようで、眼鼻や口が見えません。
その顔を持たない男が、テレビの画面越しに、眠り続けるエリを、視線を逸らさずに見つめているのです。
何度か画面が切り替わったとき、なぜか、エリはテレビ画面に映る部屋に現れたベッドに移動しています。エリの部屋のベッドからはエリの体が消えています。
こんな描写を読んで、あなたはどんなことを考えるでしょうか。何が何だかわからない、と思うこともあるかもしれません。
私はあることに気がつき、それからあとは、とてもよく理解できました。
わかりやすい話であれば、誰が読んでも受け取り方に差は生じません。しかし、そうではない場合は、読み手が自由に読んでしまっても許されます。たとえそれが誤読であってもです。読者は誤読の自由も持つからです。
私の場合は、まとめ買いした村上の作品を、出版順に読んだことが今回は幸いしたように感じます。といいますのは、何冊か前に、『アンダーグラウンド』(1997)を読んだばかりだったからです。『アンダーグラウンド』はノンフィクションで、1995年3月20日の通勤時間帯に東京都心で新宗教の団体・オウム真理教が起こした「地下鉄サリン事件」の被害者60人ほどに村上が直接話を訊き、それを整理してまとめています。
その被害者のひとりに、事件当時、31歳だった女性がいました。彼女は、普段は使わない電車にたまたま乗り、被害に遭いました。彼女はそれによって非常に重い後遺症に悩まされます。はじめは命が危ぶまれました。
女性には6歳離れた兄がひとりいます。兄は、自分の家族を犠牲にしてでも、妹の看病にあたります。その甲斐あって、片言の言葉で、意思を通わせあえるまで奇跡的に回復します。おそらくはそのときの女性でしょう。事件から25五年後の昨年、事件の日の直前に、命を引き取ったことを伝えるニュース映像が残っています。
結局、彼女は重い後遺症を引きずったまま、ベッドの上で後半生を過ごすことになりました。それを伝えるニュース映像で、兄の記者会見の模様があり、兄は涙にむせびながら、妹に「よく頑張った」と伝えたことを語っています。
村上は、『アンダーグラウンド』のための取材で、この兄妹に会い、話を訊いています。
村上にとっても、この兄妹は強く印象に残ったに違いありません。
どうしてこんな話を書くかといいますと、私には、本作の中で眠り続けるエリが、事件で重い後遺症を負った妹さんに重なるからです。そして、テレビの画面越しに、エリを見つめる顔のない男が、妹さんのお兄さんのように思えます。
村上が現実の世界とテレビの中の映像に分けて描くのは、思いを通わせることを阻害する壁を描きたかったからではないか、と考えたりします。
ある場面で、テレビの画面の中で眠り続けていたエリが、ふと目を覚まします。エリは自分がどうして見知らぬ部屋にいるのかわからず、混乱します。部屋の窓からは何も見えません。ドアには鍵がかかっており、開けてもらおうとドアを叩き、叫びますが、ドアを叩く音は起こらず、叫び声も起きません。
これは、後遺症によって、話すことや動くことを制限された状態にある人間の内面の表現に通じるでしょう。
顔を持たない男は、表情や声で妹さんに想いを伝えるものの、それが思うように妹さんに伝えることができないでいるお兄さんの姿のように思えます。
ここまで書いたことは私の勝手な解釈で、村上には「全然違う」といわれてしまいそうです。その場合は、「申し訳ありません」と深く首(こうべ)を垂れます。
本作ではほかにも、村上の『アンダーグラウンド』のための取材を匂わせるものがあります。
登場人物に高橋という大学生がいます。彼は楽器の演奏が好きで、バンド仲間との演奏では、トロンボーンの演奏を受け持ちます。
彼は、音楽で食べていくのは無理だと悟り、別の道を模索し始めます。彼が選んだのは法律の勉強をすることです。きっかけは、事件裁判を傍聴したことです。法廷でいわれる正しいといわれることが本当に正しいのか、間違っているといわれることは本当に間違っているのか、自分で確かめたいというようなことを、その日にたまたま再開し、時間を共有したエリの妹のマリに語る形で読者に伝えます。
村上は、事件が起こるまではほとんど情報を持たなかったオウム真理教に関心を持ち、事件の裁判も傍聴したと聞きます。
本作ではほかに、就業時間から翌日の始業時間までの時間、誰もいないオフィスで、コンピュータシステムに起きたバグを取り除く作業をひとりでする妻子持ちの男が登場します。村上が『アンダーグラウンド』のために話を訊いた被害者の中には、次々に舞い込む依頼に睡眠時間が削られているというコンピュータの保守点検をする男性もいました。
プロの作家であっても、作家がそれまでに知っていることでしかイメージを膨らませることはできません。それは読者も同じです。読者の想像力も、自分が知っている範囲の中でしか広がりません。
ということで、読み終えたばかりの村上の『アフターダーク』から受けた印象を、私ができる範囲で解釈してみました。「こんな受け止め方もあるのか」ぐらいに思ってもらえたら幸いです。
村上の本を読むことは順調に進んでおり、15冊中14冊目となる村上の短編集『東京奇譚集』(2005)を読み始めました。
作品名 | 出版社 | 出版年月日 |
---|---|---|
風の歌を聴け | 講談社 | 1979年7月23日 |
1973年のピンボール | 講談社 | 1980年6月17日 |
羊をめぐる冒険 | 講談社 | 1982年10月13日 |
カンガルー日和 | 平凡社 | 1983年9月9日 |
ノルウェイの森 | 講談社 | 1987年9月4日 |
ダンス・ダンス・ダンス | 講談社 | 1988年10月13日 |
遠い太鼓 | 講談社 | 1990年6月25日 |
国境の南、太陽の西 | 講談社 | 1992年10月5日 |
やがて哀しき外国語 | 講談社 | 1994年2月18日 |
アンダーグラウンド | 講談社 | 1997年3月20日 |
辺境・近境 | 新潮社 | 1998年4月23日 |
スプートニクの恋人 | 講談社 | 1999年4月20日 |
アフターダーク | 講談社 | 2004年9月7日 |
東京奇譚集 | 新潮社 | 2005年9月18日 |
小澤征爾さんと、音楽について話をする | 新潮社 | 2011年11月30日 |