このところは、Amazonが安売りした時にまとめて買ってしまったため、村上春樹(1949~)の作品にかかりきりの状態となっています。昨日は、村上が国内外の”辺境”と思われるところを旅行してまとめた『辺境・近境』(1998)という本を読み終わりました。これもこれで面白く読みましたが、その前に、「地下鉄サリン事件」の被害者の声をまとめた『アンダーグラウンド』(1997)についてまだ書いていませんでしたので、ここに書いておきます。
この事件が起きたのは1995年3月20日の通勤時間帯です。時期的にいえば、日本では年度替わりです。
ネットの事典「ウィキペディア」に上がっている村上の「年譜」で確認すると、事件が起きたとき、村上は日本にいなかったと思ってしまうでしょう。村上が5年ぶりに米国から日本に帰国するのは、同年の5月と書かれているからです。
しかし、まったくの偶然で、その時期、村上は日本に一時帰国していたのでした。所属していた米国の大学が春休みだったからのようで、2週間ほど日本に滞在していました。
村上は他の随筆や紀行文で書いていますが、昔から新聞は読まず、テレビは見ない生活を続けているそうです。そのため、大変な事件が起きたとき、神奈川県大磯の自宅で、いつもと変わらなく過ごしていました。
その日の首都圏は雲ひとつない空で、穏やかでした。早寝早起きの習慣を持つ村上は、音楽を聴きながら、のんびりと本の整理をしていました。
事件の詳細がわかり始め、騒然となりつつあったであろう午前10時頃、マスメディア関係の仕事をする知り合いから電話がかかってきます。電話の主は緊張した声で、次のようなことを村上に伝えます。
地下鉄で変な事件が起こって、被害者がたくさん出ています。毒ガスです。これは間違いなくオウムのしわざですから、しばらくは東京に出てこない方がいいですよ。あいつらはとても危険ですから。
村上春樹. アンダーグラウンド (講談社文庫) (Kindle の位置No.9429-9431). 講談社. Kindle 版.
村上は、その年までの9年間のうち、1年間日本にいただけで、他の年はヨーロッパや米国で過ごしていました。そんなこともあり、オウム真理教に関することはほとんど情報を持たなかったようです。それだから、電話で聞かされた内容も、さっぱり見当がつかないほどでした。
それからどれくらい経った頃か、めったに手に取ることがない女性誌にたまたま目を通し、その投書欄にあった事件の被害者の妻の投書を読み、被害者が経験した理不尽さに驚きます。その投書が頭の片隅に残り、被害者たちのことを知りたくなります。
それがどの程度の速度で実現していったか知りませんが、事件から約9カ月の1996年1月はじめから、同年の12月まで、ほぼ1年をかけて、62人の被害者に村上が直接会い、約1時間半から2時間、ときには4時間、録音テープに録音しながら話をしてもらっています。
被害者は、公式の発表で3800人ほどいるのだから、証言をしてくれる人はすぐに見つかると考えたものの、取材を受けてくれる人を見つけるのは非常に大変だったそうです。それはそうでしょう。当人にとっては思い出したくもないことでしょうから。
また、オウム真理教は、国の権力が集中する大手町(おおてまち)駅に狙いを定めて犯行を起こしています。その駅を利用する人の中には、中央官庁に勤めていた人も少なくないはずです。それらの人は、自分の立場を考え、取材を断ることが容易に想像できます。
実際問題、村上が話を訊けた人に、中央官庁に勤める人は、自衛官の2人以外はいません。
村上に協力する2人のリサーチャーが、マスメディアで名前が報じられた人をピックアップし、ほかに、クチコミ的な方法で被害者を捜しました。それにより、700人くらいのリストができたものの、個人を特定する作業は難しく、最終的には140人余りに絞られました。
その中で、4割程度の60数人が最終的に取材を受けてくれました。中には、録音することを断られ、記憶だけでまとめたものの、最終的には掲載を断られるケースもありました。
被害者のマスメディアに対する反感や不信感は強く、電話をガチャンと切られるのは日常茶飯事でした。
その末に、ようやく録音できたテープを文字に起こす作業は専門家にまかせますが、そのまま原稿にはなりません。日常会話として録音されているに過ぎないからです。その原稿に村上はすべて目を通し、まとまった形にするため、証言を入れ替えたりする作業が延々と続いたでしょう。
そのように集められた60数人の証言が、事件が起こされた3路線ごとと、一部はそれ以外のケースに分けて掲載されています。
読んでも読んでも、次から次に新たな証言者が現れます。そのどれもが、マスメディアには載らなかったであろうような生々しいものです。また、証言をする人の、それまでの生きざまも垣間見え、読んでいて神経が疲れます。
事件の経過を、本書の各路線ごとにある経緯を読みますと、路線によって、駅員の対応が違っているのがわかります。
林郁夫(1947~)が実行犯となった千代田線の代々木上原(よよぎうえはら)行きでは、林が下車する予定の新御茶ノ水駅に近づいた時点で、弁当箱ぐらいの大きさの新聞紙の包みを足元に落とします。
詳細はわかりませんが、林は北千住(きたせんじゅ)駅から下車する駅まで、ずっと立ったままだった(?)かもしれません。新聞紙の中には、神経ガスのサリンを35%程度含有する500~600g入り溶液パックが2つ入っていました。マスクをした林は、電車が駅についてドアが開く寸前、グラインダーで尖らせた傘の先で何度も突き、パックに穴を開けます。
林は、2つのパックの1つにしか穴を開けることに成功していません。1つの違いで、被害の状況は大きく変わったでしょう。
同線の場合は、サリンを含む溶液が入ったパックを早い段階で駅員が見つけています。電車が二重橋前(にじゅうばしまえ)駅から日比谷駅間を走行中、数人の乗客が倒れたため、霞が関駅に到着した際、駅員がサリン入りパックを処分し、溶液で濡れた電車の床を拭くなどしています。
その作業により、駅の助役と応援に駆け付けた電車区の助役の2人が命を落としています。
本コーナーの前回分で、本事件の実行犯となった林郁夫について書かれた原武史氏のコラムを紹介しました。
そのコラムで村上の本書の一部が引用されていますが、紹介された証言をする女性は、この線の乗客でした。
女性は同線沿線の町屋(まちや)生まれで育ちの事件当時23歳で、二重橋駅で乗り換えるのが通勤ルートです。女性が乗る町屋駅から大手町駅までは、無茶苦茶な混み具合で、手を動かすこともできないほど、と話しています。
女性は、いつもより早い電車に乗り、たまたま事件に遭遇してしまったようです。乗ったのはいつもと同じ1両目で、その車両には、サリンと傘を持った林が北千住から乗り込んできます。事件の日は良い天気でしたから、傘を持っていたら不思議がられるところですが、混んでいたため、誰も気がつかなかった(?)でしょうか。
彼女は、降りるために反対側のドアに移動しますが、移動したあと、元居た側のドアの近くに、新聞紙の包みがあるのが見えたそうです。ということは、移るまでその辺りに立っていたはずですが、女性の症状は重くならずに済んでいます。
そのあたりについて村上に尋ねられた女性は、次のように答えています。
あとで刑事さんとも話をしたんですが、それは居眠りしていたからよかったんじゃないかって言われました。目も閉じていたし、うとうと寝ているぶん呼吸も浅くて少なかったし(笑)。私はたしかに幸運だったと思います。
村上春樹. アンダーグラウンド (講談社文庫) (Kindle の位置No.1352-1354). 講談社. Kindle 版.
この事件で最も多くの被害者を出したのは、日比谷線の北千住発中目黒(なかめぐろ)行きです。この事件の実行犯は、林泰男(1957~2018)です。ほかの実行犯はサリンが入ったパックを2つずつ持ちましたが、林泰男だけは、教団の教祖・麻原彰晃(1955~2018)に強い忠誠心を示すため、3つのパックを受け持ちました。
しかも、3つの内の1つは、二重構造のパックの内側のパックが、あとで穴を開ける前に穴が開いており、外パックの内側に漏れ出た状態にあったようです。
しかも、 林泰男は3つのパックに穴をいくつも開け、中身を完全に外に漏れ出させることをしています。それだけ被害が甚大になったということです。同線では、8人が死亡し、2475人が重傷を負ったとウィキペディアには記述されています。
林泰男は同線の3両目に上野駅から乗車し、次の次の秋葉原駅で犯行を実行し、その場から立ち去りました。
先に書いた千代田線では、早い段階で車内のサリンが取り除かれ、車内の床も一応は拭き取っています。それと反対だったのが日比谷線の中目黒行きです。
村上に証言をする当時44歳の男性が、分岐点となるような話をしています。
男性は通勤のため、同線は北千住駅から人形町(にんぎょうちょう)駅まで利用していました。その日も、いつもと同じように、サリンが撒かれることになる3両目の真ん中のドアあたりに立って乗っていました。
実行犯の林泰男が秋葉原駅でサリン入りの包みに穴を開けて降りたとき、男性は変な臭いがすることにすぐに気がつきます。足元を見ると、新聞紙の包みがあるのに気がつきます。男性はすぐに足でホームへ蹴り出そうと考えますが、乗客がすぐに乗り込んできたため、蹴るのを思いとどまります。
男性によれば、臭いはオイルライターの臭いに似ている、と話しています。この臭いについては、それぞれの証言で異なります。
臭いを的確にいい当てた証言者が一人います。大手のコピーメーカーのメンテナンスをする技術者の男性です。その男性は、電車内で嗅いだ臭いを「イソプロピルアルコール」だと話しています。
そのときにイソプロピルアルコールという薬品のにおいがぷーんとしました。これは自分の会社でもコピー機のガラス部分を拭いたりするときに使っていますので、よく 知っているんです。仕事のときはいつもそれを携行します。
村上春樹. アンダーグラウンド (講談社文庫) (Kindle の位置No.6465-6467). 講談社. Kindle 版.
男性によれば、この薬品時代は危険なものではないそうです。それだから、コピー機のガラス部分を拭くのに使ったりできるのでしょう。
サリン自体は無臭だと聞きます。ということは、35%程度のサリンを溶かすのに使ったのがこの薬品だったことになり、その臭いを被害者が嗅いだことになりましょうか。
男性は事件を伝えるテレビのニュースで、サリン入り溶液を作るのにこの薬品が使われたと聞き、「そうか。やっぱりな」と合点したそうです。
周りに乗っていた人も口々に「臭いね」といっていたそうです。男性も、次の小伝馬町(こでんまちょう)駅に着いたらホームに蹴りだそうと考えていたそうです。その駅に着いたとき、隣にいた人がそれをホームに蹴り出してくれたそうです。そのときの模様を次のように話しています。
小伝馬町の駅に着いたらこいつは外に蹴り出してやろうというつもりでいたんだけれど、僕のかわりに隣にいた人が蹴り出してくれた。その人がやらなかったら、僕がやっていたね。というか小伝馬町の手前でその人と、「臭いですね。小伝馬町に着いたら蹴って出してしまいましょう」と話しあっていたんだ。だからどっちがやってもおしくなかった。その人は僕と同じくらいの年かな、僕より背がちょっと低かったと思う。サラリーマン風だったけれど、顔はよく覚えてないね。
村上春樹. アンダーグラウンド (講談社文庫) (Kindle の位置No.5853-5858). 講談社. Kindle 版.
その時点で、車内にはサリンを含む溶液で床には水溜りのようなものができていました。それを男性も靴で踏まざるを得ない状況となっていました。ほかの乗客も状況は同じです。
乗客がサリンが入っていたパックをホームに蹴り出したことで、それが小伝馬町のホームに、長く残り続け、それに気がつかずに、その周りを歩いて通ったり、その近くに長く留まった人に、被害を広げてしまう結果となりました。
パックが取り除かれた3両目の床はサリンを含む溶液で水溜りのようになっています。
ある人の証言では、それと知らずに乗って来た女性客が、その水溜りのようなものを見て、跳ねて越えようとしたら足が滑り、その水溜りのようなものの上に尻もちをついてしまった、と話しています。履いていたスカートはサリンだらけになったでしょう。その女性はその後、どのような状態になったか気になります。
サリンを撒かれた電車は築地駅で運転を打ち切ってしますが、後続2台の電車が小伝馬町に着いてドアを開けるたび、ホームにサリンが広がっていたため、電車を降りた乗客に被害を広げてしまう結果を生んでいます。
印刷会社に勤める50代の男性は、のちに亡くなる人が奇声を発した人がいたことを話しています。
そうしたら今度は、その人とは 反対側にいた人が、急に奇声を発したのです。「きえー!」というような声なんです。この人は、和田栄二さんという方で、結局亡くなられたということをあとで知りました。奥さんが九ヵ月の身重だった人ですね。
和田氏は苦しんで亡くなられたようです。また、その場に居合わせた人が介抱にあたり、そのことでその人たちも症状を発しています。
この和田氏については、ページを割いて、長野県上田市の農村に住む和田氏の両親と妻に村上が話を訊いています。妻に話を訊いたときは、既に娘を出産し、妻が結婚前に住んでいた横浜で父と暮らしていました。
個人的にとても気の毒に感じたのは、池袋発荻久保(おぎくぼ)行きの丸ノ内線に乗り合わせた31歳の女性です。下の名前だけで志津子さんと呼ばせてもらいます。志津子さんは事件により、一時は植物状態となり、はじめに治療に当たった医師からは、絶望視されました。
事件のあと、6歳年が離れた兄・達夫氏の懸命な看護により、まだ満足に話はできないものの、意思を多少は通わせあえるぐらいまで驚異的に回復されたそうです。
兄の達夫氏は結婚し、子供が二人いるそうです。妹の志津子さんは、親思いのまじめな子だったと達夫氏は話します。志津子さんは中学を出ると、高校には進まず、洋裁の専門学校へ入りました。両親の年齢が高かったため、早く手に職をつけることを選んだ結果です。
洋裁の学校を出たあと、縫製会社に入りますが、3、4年で会社が潰れてしまいます。志津子さんは、両親の面倒を見るため、結婚をせずに両親と暮らし、スーパーでレジの仕事をしました。
地元で暮らし、職場へもバスで通っていたのですから、電車で通勤する環境にはありませんでした。ところが、東京の杉並でスーパーの従業員の講習会があり、長年勤めている志津子さんは、教育係として、その講習会へ出かけたのがちょうど事件の当日でした。
志津子さんははじめ、別のルートで行くつもりでしたが、その話を達夫氏にすると、勤めに行く妻を駅まで送り、そのあと、自分も電車に乗るから、車で一緒に乗せて行くといい、志津子さんは当初の予定を変更し、別のルートで講習会場を目指しました。
志津子さんは年に一度しかない講習会へ行くため事件が起こされた電車の車両にたまたま乗り合わせ、大変なことになりました。
村上は達夫氏に話を訊いたあと、どうしても志津子さんに会ってみたくなり、会って話を訊いています。
村上は車椅子に座る志津子さんに、「元気になったら、何をしたい?」と訊きます。すると、志津子さんは「よぅおぉ」と答えます。わからなかった村上が達夫氏に尋ねると、しばらく考えて、「旅行、かな?」といいます。すると、志津子さんは「そう」と頷きます。
村上は旅行へ行くなら「どこへ行きたいですか?」と訊くと、志津子さんの答えは「いぃうにぃあん」です。
答えは達夫にもわからず、試行錯誤の末、「ディスニーランド」ではないかの結論に達します。元気だった頃、ディズニーランドは志津子さんの大好きなところだったそうです。
村上は志津子さんに会ったことを原稿にまとめ、次のように書いています。
もし自分が志津子さんの立場にたたされたら、果たして彼女ほどしっかりとした「生きる」意志を持ち続けることができるだろうか? 私にはそれほどの勇気の持ち合わせがあるだろうか? それほどの忍耐力の持ち合わせがあるだろうか? あれほどしっかりと、誰かの手を強く温かく握りしめることができるだろうか? 人々の愛は私を助けてくれるだろうか? わからない。ほんとうに正直に言って、私には自信がない。
村上春樹. アンダーグラウンド (講談社文庫) (Kindle の位置No.2920-2924). 講談社. Kindle 版.
私はまだ読んでいませんが、村上の長編小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)には、村上が想像した架空の生き物である「やみくろ」が登場するそうです。その生き物を、村上は次のように説明します。
彼らは古代から地底の深い闇の中に住みついている、おぞましく邪悪な生き物である。目をもたず、死肉をかじる。彼らは東京の地下に地下道を縦横無尽に掘りめぐらし、あちこちに巣を作って集団で生きている。しかし一般の人々はその存在すら知らない。
村上春樹. アンダーグラウンド (講談社文庫) (Kindle の位置No.9925-9927). 講談社. Kindle 版.
村上が『世界の終わりと_』で描いた「やみくろ」は誰もが自分の内に根源的に持つ「恐怖」のようなもので、オウム真理教が起こした事件も、「やみくろ」に通じる何かではないか、とこんな風に村上は単純化して書いていませんが、それを想起させるような書き方をしているように私は感じました。
次は、読み終わったばかりの村上の旅行記『辺境・近境』について書く予定です。まだ読むのを待つ村上の作品はありますから、しばらくは村上ワールドにお付き合い願うことになりそうです。
作品名 | 出版社 | 出版年月日 |
---|---|---|
風の歌を聴け | 講談社 | 1979年7月23日 |
1973年のピンボール | 講談社 | 1980年6月17日 |
羊をめぐる冒険 | 講談社 | 1982年10月13日 |
カンガルー日和 | 平凡社 | 1983年9月9日 |
ノルウェイの森 | 講談社 | 1987年9月4日 |
ダンス・ダンス・ダンス | 講談社 | 1988年10月13日 |
遠い太鼓 | 講談社 | 1990年6月25日 |
国境の南、太陽の西 | 講談社 | 1992年10月5日 |
やがて哀しき外国語 | 講談社 | 1994年2月18日 |
アンダーグラウンド | 講談社 | 1997年3月20日 |
辺境・近境 | 新潮社 | 1998年4月23日 |
スプートニクの恋人 | 講談社 | 1999年4月20日 |
アフターダーク | 講談社 | 2004年9月7日 |
東京奇譚集 | 新潮社 | 2005年9月18日 |
小澤征爾さんと、音楽について話をする | 新潮社 | 2011年11月30日 |