前回の本コーナーでは、昨日の昼前に読み終えた村上春樹(1949~)の長編小説『1Q84』の全体の感想のようなことを書きました。
その中で、本作についてはほとんど書いたつもりです。そう思っていましたが、まだ書き足りないように思いますので、今回もその続きのようなことを書きます。
本作のタイトルは『1Q84』です。日本語読みした「いち・きゅう・はち・よん」をもじっています。村上の作品は海外でも翻訳されて読まれています。日本語だけに通じるタイトルが、海外ではどのように受け止められているでしょうか。
1984年はジョージ・オーウェル(1903~1950)の『1984年』(1972)から引いているようですが、それに連なるようなことが書かれているわけではありません。
村上の作品で特徴的なのは、別々の話が同時進行で描かれるスタイルです。本作でも、主要人物の川奈天吾と青豆雅美をそれぞれ別の章にして描くことをしています。
その描き方を村上が好んでいるのでしょうが、そのことで、それを読む人は、章が替わるごとに、話がぶつ切りされているように感じてしまいます。
本作で村上が何を一番描きたかったのかはわかりません。タイトルに「1Q84」とつけ、1984年と重ねていますので、現実の1984年から別の1984年に迷い込んだ人間が巡り合うものを描きたいと漠然と考えたかもしれません。
タイムトラベルものとしては、映画の『バック・トゥー・ザ・フューチャー』シリーズの三部作があります。
あのシリーズはよく練られて作られています。それに比べ、本作は作り込みが足りません。
青豆が首都高速の非常階段を降りることで、1984年から1Q84年に入り込んでしまう設定ですが、1Q84年で描かれることは、1984年と大差ありません。
青豆が図書館へ行き、新聞の縮刷版で自分の記憶を確認し、相違があることを見つけなければならない程度のことです。
村上はご自身を純文学の作家と考えられていらっしゃるのでしょう。ただ、それが村上作品の「限界」を生む要因となっているのかもしれません。
その自分の立場を捨て、幻想的な作品を自由に描こうと思えば、青豆が入り込むのは1Q84年ではなく、青豆と天吾が10歳だった1964年です。
そこには、千葉県市川市の公立小学校4年生の天吾くんがいます。
天吾は算数を筆頭に、どの教科も優秀で神童といわれています。そんな天吾ですが、父との関係はよくありません。
天吾とふたりでNHKの社宅で暮らす天吾の父は、NHKの受信料の集金人をしています。日曜になると父は天吾を連れて、集金をして歩きます。それが天吾には苦痛以外の何物でもありません。
1964年に迷い込んだ30歳目前の青豆が、そんな10歳の天吾を遠くから見守るように描いたら、『1Q84』で描かれたラストが、読者にもっとすんなり受け入れられたのではないでしょうか。
1984年から1Q84年に入り込む入り口が首都高速の非常階段であれば、天吾がその別の年に入り込むには、青豆と同じようにその階段を別の理由で降りる必要があります。
ところが、その手順を踏まず、青豆と同じ1Q84に入り込んでしまうため、タイムトラベルの手法を用いる必要性が薄れてしまいます。
それだけでは留まらず、青豆の正体を突き止めるよう依頼された調査員の牛河まで、いつの間にか1Q84年の「住人」になってしまいます。
天吾が1984年の世界を生き、青豆が1Q84年を生きるように設定したら、もっと違った描き方が出来たように考えます。
純文学の作家は、大衆小説の作家のように、文芸雑誌や新聞に長期で連載するようなことはしないものなのでしょう。村上の場合も、ほぼすべてに近い作品が、書き上げたあとに発表する書下ろしです。
村上の場合は独特で、村上自身がそれをエッセイで書くように、自分で書いた作品を寝かしたり、書き直し、書き込みといったような作業をとことんまでするそうです。
その間は、出版社の編集者にも途中段階の自分の作品を読んでもらうことをほとんどしないのでしょう。
村上は、妻の陽子さんに読んでもらうことをすると読んだことがあります。それがいつもなのかはわかりません。
一方、連載の締め切りに追われるように執筆する大衆小説家は、書き上げたそばから原稿を編集者に奪い取られるるように筆を進めるのでしょう。
まだ年数の浅い作家であれば、編集者から注文をつけられ、削ったり書き直したりすることがあるでしょう。そうやって、自分の作品を担当する編集者と二人三脚で執筆の精度を上げていくことになりそうです。
幸か不幸か、デビュー段階から独り立ちした村上は、そのような、いい意味での切磋琢磨の経験を持ちません。それが今になって、不幸の面が強くなっているように思わないでもありません。
村上について書かれたネットの事典ウィキペディアに書かれていたように記憶しますが、村上は編集者からあまり好かれていないとありました。
村上は、どこまでも自分の気に入るように作り込み、その上で発表するため、編集者から注文をつけられるようなことがもしあったとしても、ほとんどをはねつけてしまうのではありませんか?
誰が読んでも村上の作品が完璧な仕上がりであればそれでもいいですが、村上といえども、完璧であることは少ないでしょう。
その結果、不確かな作品が村上によって世に出ることになってしまいます。
本作にしても、宗教団体を話の要素として登場させていますが、それがなくても、10歳の時に出会った天吾と青豆の愛を描くことができたように思います。
そして、そのほうが、もっとシンプルに描けたのではないでしょうか。
前回のまとめでも書きましたが、本作の天吾と青豆は、10歳のときから30歳の今まで、相手への愛情が変わりません。そんな奇蹟が本当にあるのだと信じさせるのが小説の魅力のひとつですが、私は本作を読んでいて、信じさせられる代わりに、疑問を持ちました。
現実の世界では、本作で描かれたように、もうひとつの世界に入り込むことはできません。後戻りもできません。
村上としても、これまでの延長線上で、作品を発表していくよりほかありません。これから、連載で作品を発表するのは難しいでしょう。編集者からの指摘を受け入れられるようになるとも思えません。
今から三十年後、四十年後、村上の作品はその時代の人々にどのように受け入れられているでしょうか。
タイムトラベルができたら、それを自分の眼で確認したい気になります。
続けて、村上の長編小説『騎士団長殺し』(2017)を読むことにしましょう。『1Q84』の7年後、8年後の作品になります。この間に、村上の小説に対する考え方に変化は見受けられるでしょうか?