猿話の記憶違いと煙のように消えた男 村上の短編から

村上春樹1949~)の作品を毎日読み、短い作品であれば毎日読み終わり、本コーナーで毎日取り上げることになります。

村上の作品は、電子書籍版になった作品で、まだ読んでいなかった作品を、ポイントが多くつくキャンペーンのとき、まとめて12冊購入しました。そのあと、3冊を別に追加し、15冊を出版順に読んでいます。

作品名出版社      出版年月日
風の歌を聴け講談社1979年7月23日
1973年のピンボール講談社1980年6月17日
羊をめぐる冒険講談社1982年10月13日
カンガルー日和平凡社1983年9月9日
ノルウェイの森講談社1987年9月4日
ダンス・ダンス・ダンス講談社1988年10月13日
遠い太鼓講談社1990年6月25日
国境の南、太陽の西講談社1992年10月5日
やがて哀しき外国語 講談社1994年2月18日
アンダーグラウンド講談社1997年3月20日
辺境・近境 新潮社 1998年4月23日
スプートニクの恋人講談社1999年4月20日
アフターダーク講談社2004年9月7日
東京奇譚集 新潮社 2005年9月18日
小澤征爾さんと、音楽について話をする新潮社2011年11月30日
私がAmazonの電子書籍版で購入した村上春樹作品(出版順)

昨日は、15冊中14冊目の『東京奇譚集』2005)を読み終え、続けて15冊目の『小澤征爾さんと、音楽について話をする』2011)に早速取り掛かりました。ということで、今回は『東京奇譚集』です。

本作は、次の短編5作品からなる短編集です。

タイトル初出
偶然の旅人『新潮』2005年3月号
ハナレイ・ベイ『新潮』2005年4月号
どこであれそれが見つかりそうな場所で『新潮』2005年5月号
日々移動する腎臓のかたちをした石『新潮』2005年6月号
品川猿書下ろし

村上に限らず、短編小説は、複数の短編集に重複して掲載されることがあります。本作を読み始める前、目次を見て、5作品目は、村上の短編集で以前読んだことを思い出しました。しかし、それは私の勘違いでした。

5作品目は『品川猿』という奇妙なタイトルで、一度聴いたら忘れないタイトルに思われます。それで、目次を見てすぐに思い出したのです。

しかし実際に読みだしてみて、筋がまったく違っていたので戸惑いました。私の記憶では、出てくるのは男で、どこかひなびた温泉宿に行き、そこで日本語を自由に操る猿に出くわします。人生に疲れていた男は、猿とひととき時間を共有します。

男が温泉に浸かっているとその猿が現れ、背中を流してくれました。

そんな記憶で、本短編集にある『品川猿』を読み始めると、登場してきたのは、東京の品川に住んでいる20代の女性です。女性は夫と区内に暮らしていますが、1年ぐらい前から、あることに密かに悩んでいます。それがなんと、誰かに咄嗟に自分の名前を訊かれると、すぐに思い出せなくなっていることです。

あるとき、女性は、品川区役所が、区民の悩みの相談に応じていることを知り、そこを訪れるといった話の展開になります。

このように、まるで話の筋が違います。おかしいと思ってネットの事典「ウィキペディア」で確認すると、私以前読んで、本短編集に収録されている短編作品と同じだと思った短編作品のタイトルは、『品川猿』ではなく、『品川猿の告白』であることがわかりました。

『品川猿』は、『東京奇譚集』が出版された2005年に書き下ろされた作品で、2009年に出版された短編集『めくらやなぎと眠る女』にも収録されています。私はこの短編集もぜひ読んでみたいと思いましたが、まだ、本短編集はAmazon Kindleのための電子書籍化はされていないようです。

私が『品川猿』と勘違いした『品川猿の告白』は、短編集の『一人称単数』2020)に収録されており、それを読んだとき、その短編作品を読んだのでした。

『品川猿の告白』は文芸雑誌『文學界』2020年2月号に掲載された作品のようです。ということは、『品川猿』の15年後になります。どちらにも猿に「品川」がついているのですから、同じ猿で、「告白」がつく作品は、つかない作品の続編になりましょう。

あとでもう一度「告白」がついた作品を読み返し、確認することにします。

今回取り上げる短編集は、どれもが身近に起こる不思議な出来事を描いています。どの作品も楽しめました。

3作品目の『どこであれそれが見つかりそうな場所で』という、タイトルからして不思議(?)な作品を取り上げてみます。本作は、文芸雑誌の『新潮』2005年5月号に掲載された作品です。

舞台は東京で、「私」の眼を通した一人称で描かれます。

物語が始まるとすぐ、「私」(45)が、前に座る女性の話を熱心に聴いていることがわかります。35歳になる女は、40歳の夫について「私」に話します。

東京・豊島(としま)区の寺の住職をしていた義父が3年前の雨の夜に、都電のレールの上に酔って横になり、ひかれて亡くなったことを、話の前段として「私」に話します。

義父と二人暮らしだった義母(63)を夫が引き取り、夫婦が暮らす高層マンションの2偕下にひとりで住んでいます。義母が用事がある時は、2偕上の息子夫婦の家に電話をし、それを受けた夫婦は、どちらか空いている人が下へ降り、求めに応じることを日頃からしています。

夫婦が済むのはマンションの26偕。義母は24偕です。

「写真AC」のイメージ素材

女の話を聴きながら、「私」はメモ用紙に鉛筆で、ポイントとなる単語を丁寧な文字で書きます。

夫婦の家の電話が鳴ったのは、9月3日日曜日の午前10時頃です。証券会社に勤める夫はゴルフに出かける予定がありましたが、その日は雨が強く降っていたため、妻と自宅にいました。

電話に出たのは夫です。義母は「息がうまくできない」「めまいがして椅子から起き上がることもできない」と訴えています。夫は普段着で2偕下の義母の部屋へ向かいます。

高層マンションく暮らす人のほとんどは、移動にエレベーターを使うでしょう。ところがこの夫は、多くの人と違い、エレベーターを嫌い、常に階段で上り下りする習慣です。そのときも、階段を使って2偕下の母の住まいへ向かったのです。

このあとに不思議なことが起きと女は「私」にいいます。夫が戻って来ないというのです。しばらく待ってから女が義母に電話で確認すると、「ずっと前に帰った」と答えたそうです。義母の家に着いたとき、夫から電話があり、「今から帰るから、朝食の用意をしておいてくれ」といっていたのに、です。

女は「私」に、煙のように消えた夫を見つけて欲しい、と依頼に来たのです。「私」は女が用意してきた謝礼を断り、無料で、話を引き受けることを約束します。

怪訝そうな女に、「私」は次のように落ち着いた声で答えます。

「いいえ、違います。これは私の職業じゃありません。あくまで個人的なボランティアです。ですから料金はかかりません」

村上春樹. 東京奇譚集(新潮文庫) (Kindle の位置No.1001-1002). 新潮社. Kindle 版.

さて、煙のように消えた夫はどこに行ってしまったのでしょう。果たして、無事、妻のもとに戻ってくるのでしょうか。気になる人は、本作を含む村上の短編集『東京奇譚集』で確認してください。

私は、読みかけの小澤征爾との対談集に戻る前に、気になる『品川猿の告白』を再読することにします。私の場合は、消えかけた記憶を確認するために。


『品川猿の告白』を読み返し、内容を確認しました。間違いなく、『品川猿』に出てくる猿と『品川猿の告白』に出てくる猿は同一人物といいますか、「同一猿物」でした。それはそうです。品川猿氏ほど日本語を流暢に操れる猿はそうそういないですから。

『品川猿の告白』で、風呂を上がった男に、猿が男に頼まれたように、ビールの大びん2本とコップをふたつ、それに、つまみとしてさきいかと柿ピーをお盆にのせ、男が泊まる「荒磯の間」を訪れます。猿が身の上話を次のように話す場面を紹介し、猿が言葉にまったく不自由していないことを確認してもらいます。

「はい。屋根裏部屋のようなところに布団を敷いて、寝泊まりさせてもらっております。ときどきネズミなんぞが出ますので、いささか落ち着きませんが、しかしなんといっても猿の身ですから、布団をかぶって寝られて、三度の食事がちゃんといただけるだけでありがたいと思わねばなりません。極楽……とまでは申しませんが」

村上 春樹. 一人称単数 (文春e-book) (Kindle の位置No.2035-2038). 文藝春秋. Kindle 版.

どうです。なかなかできたお猿さんでしょう。謙虚で、自分の身分をわきまえています。

この猿と対面した男は物を書く職業についています。それだから、人間の言葉を操る猿と対面したことを文章に書き残しておきます。文章にまとめたのが、猿に出会った5年後です。ということは、品川猿が東京の品川の地を離れて5年目ぐらいに、男が群馬の崩れかけた宿で遭遇した計算になります。

男は奇妙な猿との邂逅を文章にまとめたものの、発表する機会も気持ちもありませんでした。それが、文章を書いた5年ほどのち、男が暮らす東京都心で奇妙の体験をした女性がいることを知り、公開したのが『品川猿の告白』という文章になります。

『品川猿』を村上が書きおろしたのは2005年。そして、『品川猿の告白』を発表したのが15年後ですから、計算がぴったり合います。この芸の細かさも村上らしいといえましょう。

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