醜い女と僕の話

Amazonの電子書籍版で、村上春樹の短編集『一人称単数』を読みました。

Amazonの電子書籍を扱うKindle本ストアが8周年を記念し、11月5日まで、5000点以上の電子書籍に50%のポイントを還元するキャンペーンをしています。村上の短編集がこのキャンペーンに該当し、購入を決めました。

これまで、村上の作品は何冊か読みました。昔、『ノルウェイの森』1987)は確か出てすぐぐらいに読みましたが、このところ続けて接している村上作品はいずれも昔に出たものです。本短編集は、今年の7月18日発売しています。

短編集には次の8篇が収録されています。

石のまくらに(『文學界』2018年7月号)
クリーム(『文學界』2018年7月号)
チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ(『文學界』2018年7月号)
ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles(『文學界』2019年8月号)
「ヤクルト・スワローズ 詩集」(『文學界』2019年8月号)
謝肉祭(Carnaval)(『文學界』2019年12月号)
品川猿の告白(『文學界』2020年2月号)
一人称単数(書下ろし)

表題作『一人称単数』以外はすべて、純文学を扱う文藝春秋の月刊誌『文學界』で発表された作品です。

通して読んでみますと、登場する主人公の「僕」は、若かった頃の村上本人を連想させるものが少なくありません。中でも『ウィズ・ザ・ビートルズ』は、村上が神戸の高校に通っていた頃そのままの印象で、村上がいう“古代史”に相当しそうな昔のこととはいえ、ここまでガールフレンドと彼女の兄について詳しく書いてしまっていいのだろうか、という気にさせられます。

しかし、小説家は物語を紡ぐことを職業にする人間です。読者を現実と混同させるのはお手の物でしょう。

『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』はそうしたことを象徴しています。

村上が小説家になる前、ちょっとした行きがかりで自費出版のような雑誌(4号出ただけで消える。村上の文章が載ったのは3号)に、表題と同じタイトルを持つ伝説のジャズミュージシャン、チャーリー・パーカー奇蹟の復活を飾るアルバムのレコード評を書き、それを読んだ雑誌の編集長に、そのアルバムが実在すると信じ込ませるという“前科”を持ちます。

当時村上が書いた空想の音楽評の一部が紹介されています。それを読むと、騙されてしまっても仕方なさそうに思えます。それを村上が書く5年も前(← だったかな?)、チャーリー・パーカーは他界していたというのにです。

こんな風に、どこまでが現実のことを書き、どこからが作り事か、見分けるのは容易くありません。

『品川猿の告白』だけは、実話でないことがすぐにわかります。それでも、書き出しだけは実話風です。

本作を書く5年ほど前、行き当たりばったりの旅をする「僕」は、群馬の温泉町にある駅に降り立ちます。それは夜で、やっと見つけた一軒の宿に泊まります。そこは今にも崩れそうな宿で、ほかに泊り客がいるかどうかもわかりません。

その宿の風呂に一人で入っていると、誰かが戸を開けて入ってきます。なかなか礼儀正しい人らしく、背後からは「失礼します」の声が聞こえます。

振り向くと声の主は猿です。意味が呑み込めない「僕」に「背中をお流ししましょうか?」と申し出、気を取り直した「僕」は、猿に背中を流してもらっていい気分になります。

いい話し相手が見つかったと考える「僕」は、宿の自分の部屋に猿を招き入れ、ビールを飲み交わしながら、猿との会話を楽しみます。猿は恋の悩みを抱えています。

人間にあまりにも近づきすぎたその猿は、猿を恋の相手にできなくなり、人間の女性に恋心を燃やすのだそうです。しかし、それが成就することは考えられません。

その猿が実践していることは、もしかしたら人間で恋に悩む人にも何かしらのヒントになる(?)かもしれません。

ともあれ、こんな風に話が展開するのですから、これを実話と考える人はいませんね。

本当にありそうに思えたのは『謝肉祭(Carnaval)』です。「そのとき僕は五十歳を少し過ぎていた」とありますから、2000年頃の回想になります。

音楽好きで、音楽に詳しく、クラシックの演奏会にもしばしば出かける村上そのものの「僕」が、その年、ある演奏会へ出かけたことで、「醜い女」と知り合います。

女性の読者で、その人が美しくないことはもちろん、醜いとまではいえないものの、他人からはそう思われるかもしれない容貌であることを自覚している人の場合、本作はどんな作品に読めるでしょう。

歳は「僕」より多分10歳ぐらい下と書かれています。その女性を仮に「F*」としていますが、職業はわかりません。着ている服を見ても金に不自由している様子はありません。都心にある瀟洒なマンションに夫と暮らしているといいながら、「僕」はF*の夫には一度も会ったことがありません。乗っている車はBMWのセダンです。

F*には、周りにいる人間を驚かせるような癖を持ちます。大きな音で指の関節を鳴らすことです。この癖は、前向きな興奮が起きたときに現れます。

その癖を「僕」が初めて見たのは、最も好きなピアノ曲を1曲だけ選んで欲しいとF*にいわれ、考え抜いた末に「僕」がロベルト・シューマン18101856)の『謝肉祭』18341835)と答えたときです。

それを聴いたF*は、10本の指を順に1回ずつ10回鳴らし、周りに居合わせたほかの客を一人残らず驚かせたあと、次のような反応を見せます。

「本当に『謝肉祭』でかまわないとあなたは思うわけ? 古今東西のピアノ曲からただ一曲だけを無人島に持ち込めるとして」、彼女は眉を寄せ、長い指を一本立て、念 を押すように言った。

村上 春樹. 一人称単数 (文春e-book) (Kindle の位置No.1676-1678). 文藝春秋. Kindle 版.

話の展開を文字だけで追っていますと、いつの間にか、F*が「僕」がそれまでにあった誰よりも醜い女であることを忘れてしまいます。これが現実であれば、このように「僕」迫るF*は、醜い顔で「僕」に強い視線を送っているのです。

村上が彼女を世にも醜い女に描いた理由はわかりません。実話に近いのであれば、モデルとした女性が実在するでしょう。

村上はモデルとした女性が自分の書いた短編を読むことを危惧し、「どこかでこの文章を読むことになるかもしれない」と不安を正直に書いています。もっとも、こう書くことで、村上が想像したのかもしれないキャラクターの人間が、実在するように読者に思わせる効果を生むことになるわけですが。

「僕」によって知らされた醜い女のF*は、自分の醜さをまるで気にしていません。それどころか、自信に満ちた生き方をしています。それは音楽の好みにも表れ、世評など気にせず、自分が信じたものを選び出し、心行くまで愉しむことができます。

「僕」が選んだピアノ曲1曲はF*のお気に入りで、以後、「僕」はF*の家を定期的に訪問し、オーディオルームの高価な装置で、シューマンの『謝肉祭』を演奏したレコードCDを聴き比べることに熱中します。実際のところ、2人を満足させる録音はなかなか見つからないのですが。

シューマンのその曲は、当時の音楽界でも異端児され、正当に評価されいないと2人の意見は一致します。

「僕」に選ばせたシューマンの1曲は、おそらくは現実の村上自身が好む曲であるのでしょう。その曲の素晴らしさを表現するために本作の構想が立てられ、村上の化身である「僕」の会話を引き出し、あるいな語らせる役目としてF*を作ったといえなくもなっさそうです。

この曲を作曲したシューマンには、元々分裂症(統合失調症)的な傾向を持ったそうです。その上、若い頃に梅毒を患ったこともあり、頭が正常でなくなり、日常的にしつこい幻聴にも悩まされた、と村上が本作でF*の口から語らせています。

博学なF*は、次のような自説を「僕」に披露します。

「私たちは誰しも、多かれ少なかれ仮面をかぶって 生きている。まったく仮面をかぶらずにこの熾烈な世界を生きていくことはとてもできないから。悪霊の仮面の下には天使の素顔があり、天使の仮面の下には悪霊の素顔がある。どちらか一方だけということはあり得ない。それが私たちなのよ。それがカルナヴァル。そしてシューマンは、人々のそのような複数の顔を同時に目にすることができた─ ─仮面と素顔の両方を。なぜなら彼自身が魂を深く分裂させた人間だったから。仮面と素顔との息詰まる狭間に生きた人だったから」

村上 春樹. 一人称単数 (文春e-book) (Kindle の位置No.1766-1771). 文藝春秋. Kindle 版.

醜く生まれついたと村上に書かれるF*は、創作の上でだけかもしれませんが、自分の醜さを克服するため、表面に現れる美醜と内面との間には関連がない、という“哲学”のようなものを確立していったのでしょう。そういうことでもしない限り、生き抜くのが難しいと思われたからです。

しかし、醜い容貌を持つ人間の内面も醜い場合があることを、本作のF*は証明してしまうわけです_。

ともあれ、本作を読んだ人で、まだじっくり聴いたことがない人は、シューマンの『謝肉祭』に興味を持ち、実際に聴いてみる人もいるでしょう。

本作の「僕」(おそらくは村上自身)はアルトゥール・ルービンシュタインの演奏を好む設定です

村上は、他の作品でも自分の音楽の好みを押し付けることがよくあります。そうした音楽の多くは、あまり知られていない音楽で、その音楽について書く自分=村上が、いかに音楽に通じているか、それとなくひけらかすように感じないでもありません。

ビートルズの音楽を好む読者が、本短編集の『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』を読むと、良い印象は持たないかもしれません。

本作は意外な方向へ進み、それを読む読者は、モデルが実在したように考え、当時のニュースをネットで検索する人もいるかもしれません。モデルがいるかどうか、私は読み終えた今もわかりません。

本短編集の表題作『一人称単数』についても何か書きたい気分ですので、次回以降、本コーナーで取り上げることになりそうです。

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