「雪村いづみって知ってる?」と若い人に訊いたなら、ほとんどの人は「知らない」「全然知らない」「聞いたこともない」と答えるでしょう。σ(^_^) 私は、若い人よりは若くないため(←回りくどいいい方だなぁ(^m^))、「知らない」ことはありません。ただ、一番活躍していた頃のことは知りません。
若い人であっても、朝比奈マリアさんなら「知っている」と答える人がいるでしょうか。彼女のお母さんが雪村いづみさんです。
本日分を更新するにあたり、ネットの事典「ウィキペディア」で、私はにわか知識を仕入れたばかりです。雪村さんは、東京オリンピックが開催される数年前、アメリカに渡って自慢の歌を披露し、全米12都市を回る公演の中心的存在となり、アメリカのテレビ番組にも数多く出演し、1961年、アメリカの有名雑誌『LIFE』4月号の表紙に顔写真が使われるなど、世界で通用する日本初のスターなのでした。
ここまで凄い人だったとは、私はまったく知りませんでした。
私が本コーナーで雪村さんを取り上げようと思ったのは、今月3日夜に放送された「SONGS」に雪村さんが登場し、録画してあった番組をおとといになって見たことです。
彼女の活動の軌跡を紹介しながら、5曲ほどでしたか、今でも心の底から「歌を歌うのが好き」とおっしゃる雪村さんが歌を披露する様子が紹介されました。
番組の終わりの方のインタビューで、雪村さんは実に生き生きとした表情で、キッパリと次のように述べました。
今はベストで! 一生懸命やるしかないじゃない! 楽しく。
見ていた私は、大げさにいえば、雷に打たれた気分になりました。雪村さんの言葉は私の心に真っ直ぐに入ってきました。そして、その雪村さんの思いを少しでも文字で表現できないかと思って、本コーナーで取り上げることをその時に決めました。
これはおそらく、雪村さんの本心で、ときには自分の思いに自分で怯むような場面もあったかもしれませんが、弱い自分に自分で活を入れるように人生を歩んで来られたのであろうことが想像できる人です。
15歳でショービジネスの世界に入り、今年で歌手生活60年になるそうです。
番組では、「9歳の時に父が亡くなった」とだけ伝えていましたが、「ウィキペディア」にあった記述で、彼女の父が自殺していたことを知りました。経済的な困窮もあり、彼女は高校への進学を諦め、好きだった歌の世界へ飛び込むことを決意します。
その頃のことか、母親の知り合いが勤めていたという東京・新橋にあったダンスホールへ行き、ステージに飛び入りで上がり、その時に唯一歌えたという『Because of You(あなたのおかげよ) 』を歌ったそうです。
彼女の歌がお客さんに受けたのか、バンドマスターに「明日もおいで」と声を掛けられます。が、電車賃がなかったため、久が原(久が原駅)から、叔父さんパン屋さんをしていた雪ヶ谷まで2駅歩いて行き、叔父さんに新橋までの電車賃を借りた、と番組で当時を振り返ってお話されていました。
雪村さんは手足が長く、当時の平均的な日本人からは日本人離れしたスタイルに恵まれ、ファッションモデルとしても活躍されたそうで、何をやっても人々の注目を集める天性の素質を持っていたようです。
その頃、母親が当時のお金で8500万円ほどの借金ができてしまったそうです。結局その返済に20年ほどもかかったそうですが、雪村さんは家の経済を助けるためもあってか、活躍の場をアメリカに求め、1959年に初めてアメリカへ渡ります。
アメリカへ渡った雪村さんが、アメリカのテレビ番組に出演し、堂々と英語で歌う貴重な映像も番組で紹介されています。まったく物怖じしたところも見せず、歌唱力の飛び抜けた才能はいうまでもいありませんが、度胸の良さも充分に感じさせます。
ある番組で共演したことで交流ができ、あの映画『アパートの鍵貸します』にも出演し、個人的にも大好きな大女優、シャーリー・マクレーンからは自宅に招かれ、彼女の家にあったというプールで一緒に泳いだ話もしてくれています。
1961年に帰国した雪村さんは、結婚と生まれた子供の世話などで、芸能活動から一旦離れます。その頃はちょうど日本の芸能事情が急激に変化する時代にあたり、気がつけば歌謡曲が全盛の時代になっていたようです。雪村さんは芸能界への復帰を図りますが、それまで洋楽を自分の持ち歌とするような雪村さんの活動は、日本国内では職場を失っていたのでした。
また、1966年にアメリカ人の夫と離婚し、かつて脚光を浴びたアメリカのショービジネスでの活躍を夢見て渡米します。
しかし、最初の渡米のときとは扱いがガラリと変わっていました。どこも門前払いだったのでしょうか。アメリカは実力社会で、ショービジネスの世界で仕事をしたかったら、オーディションを受け、それに採用されることでしか道は開けなかったそうです。それだから、新聞などでオーディションの情報を得ては、アタックを続けたそうです。
当時のことは、以前、FM放送で聴いて、少しは知っていました。当時、アメリカに暮らし、のちにヘンリー・ミラーと結婚することになるホキ徳田さんとは昔から友だちだそうです。その縁で、ホキさんがパーソナリティをするFM番組に雪村さんが何度かゲスト出演し、当時の思い出話をしてくれていたからです。
7月15日の放送が音声ファイルで残っていますので、その一部を紹介します。ホキさんがある映画のオーディション会場から出てくると、そこに雪村さんがいたため、驚いたそうです。「どうしてこんなところに日本の大スターの雪村さんがいるの!?」と。
雪村さんは今年75歳だそうですが、画面に映る彼女は背筋がピンと伸び、とても意欲的です。冒頭の話に戻れば、自分を自分で叱咤する部分もあるのだろうと想像します。
9歳の時に父親を亡くし、そのあと母親が大きな借金を抱えてしまいます。高校へも進学できなかった雪村さんは、持って生まれた有り余る才能で活躍の場を日本ばかりかアメリカでも得ます。しかし、最初の夫とは5年ほどで別れ、そのあとにも再婚と同棲を経験しています。
気が塞ぐことも多々あったでしょう。しかし、だからこそ、「今はベストで! 一生懸命やるしかないじゃない! 楽しく」とご自分に活を入れることもされたのでしょう。
番組の最後に披露してくれたのは『ケ・セラ・セラ』です。雪村さんがつけたという日本語の詞を一部紹介しましょう。
あたしがお嫁にゆく人は どんな人
お金持ち それとも貧乏絵描(えかき)
ケ・セラ・セラ 心配せずに
神様の手に まかせましょ
ケ・セラ・セラ