本日は、これまで書こうと思いつつ書けずにいた知られざる写真家について書いていくことにします。
写真家の名前はマリオ・ジャコメッリですが、果たしてどれほどの人がこの写真家を知っているでしょうか。正直いいまして、私もその番組を見るまで知りませんでした。写真家を知ることになった番組は、毎週、ほとんど習慣のように見ている「新日曜美術館」(日曜美術館)です。
ジャコメッリが取り上げられた番組は5月25日に放送になっています。おそらく、番組が放送された頃は、TBSの局アナからフリーになった川田亜子(かわだ・あこ)という女性アナウンサーが“自殺”する出来事が起き、当時はその情報収集などに時間が取られ、ついついこの写真家を取り上げることをあと回しにしてしまった事情があります。
仕切り直しで書き出そうと思いましたが、放送から2カ月ほど経ち、さすがに記憶が薄れていたため、PCで録画して自作DVDにしておいた番組を見て確認しました。
ジャコメッリという名前を聞いたとき、私は何となく耳に馴染んだ名前のように感じました。しかしそれが勘違いであることに、番組を見始めてすぐに気がつきました。耳に馴染んでいたのは似て異なる彫刻家のアルベルト・ジャコメッティです。ちなみに、ジャコメッティは人体を針金のように細長く表現した彫刻で知られています。
私がこれから取り上げるジャコメッリという表現者は、イタリアに生きた男(1925~2000)です。
別に仕事を持つ人が、休みの日に絵を描いたりしますと「日曜画家」といわれたりします。それでいけば、ジャコメッリをさしずめ「日曜写真家」ということもできそうです。ジャコメッリは土日にカメラを持って写真を撮っていた表現者です。もっとも、表現された作品を見ますと、素人の表現者ではまったくありません。
考えてみますと、写真という表現手段は、プロとアマチュアの垣根を限りなく低くすると思います。プロの写真家の立木義浩さんがかつて、写真家の織作峰子さんが講師役をするNHK教育の写真講座でインタビューに応じ、次のような冗談とも本音とも取れるような発言をしたのを憶えています。
もう一度生まれてくるんだったら、今度はアマチュアの写真家として写真を撮りたいなぁ。
たとえば、ある地方の風物をテーマにした写真の場合、その土地に長年住んでいるアマチュア写真家の方がプロよりも圧倒的に有利であるというような話です。プロが思い出したようにその土地を訪れて写真に撮るのに比べたら、そこに根を張って撮り続ける土地の写真家の方が質は別にして量は確かに有利であるというのは頷けます。
この話の続きでジャコメッリの話に入っていこうと思いますが、ジャコメッリの代表的なシリーズ作品はふたつあり、そのひとつは『スカンノ』です。スカンノとは、イタリアにある小さな村の名前だそうです(スカンノ)。撮影されたのは1957年から1959年で、ジャコメッリ、30代の作品です。
彼の作品世界を解説をするナビゲーター役を務めるのは、作家の辺見庸(へんみ・よう)さんです。辺見さんは何年も前に海外で、日本でほとんど知られていなかったこの写真家の作品に偶然出会い、心に刻み込まれてしまったそうです。そのように、見る者に強烈な印象を残さずにはおかないジャコメッリの作品を評し、辺見さんは番組の中で「まるで刺青を彫り込まれるよう」といったような表現を使っています。
ジャコメッリの作品は全てモノクロームです。白と黒だけの表現。それについて、ジャコメッリ自身の次のような言葉が残されています。
白、それは虚無。黒、それは傷痕だ。
一枚の作品があります。それは見る者を奇妙な感覚にします。手前に黒い衣装の婦人が二人います。画面の左から右へ通り過ぎる場面です。これが撮影されたスカンノというのは中世の面影が残る小さな村だといい、なるほど、婦人が身につける衣装は時代を感じさせます。頭には黒い帽子をかぶっています。
向こうにも黒い衣装の婦人が二人立っており、その二人はカメラの方を見ているようですが、その顔まではわかりません。そして、画面の中央に一人の少年が写っています。同じく黒い衣装です。ポケットに手を入れ、正面を向いてこちらに歩いてきます。
この作品に限らず、ジャコメッリが撮したのは「ある時代のある村や町の風物を記録写真的に撮したもの」ではありません。辺見さん曰く、それが数百年も前の写真だといわれればそんな気もしますし、また、まだ見ぬ世界を予知夢を頼りに映像作品にしたといわれても、これまたそんな気になってしまいそうな雰囲気をどの作品も持っています。
ジャコメッリは、自分の内面世界を表現するため、写真という表現手段を利用しているに過ぎないようにも思われます。ジャコメッリは次のようなことも述べています。
僕が興味があるのは「時間」なんだ。「時間」と僕のあいだにはしょっちゅう論争があり、永遠の戦いがおこなわれている。
また、「自分には対象物と距離だけあればいい」というようなこともいっていたようです。
ジャコメッリのもうひとつの代表的なシリーズは、故郷の町にあるホスピスに30年ほど通い詰めて撮影した『死が訪れて君の眼に取って代わるだろう』(1954~1983)です。
死を待つように暮らす老人たちを撮した作品群ですが、1年ほど足繁く通い、老人たちと意思疎通をはかり、そののちに撮影を始めたようですが、老人たちと接しているうちにジャコメッリ自身も老人になってしまったような感覚に襲われたそうです。
だからといって、ジャコメッリは老人たちに憐憫の眼差しでレンズを向けているわけではありません。すぐ上でも書いていますが、ジャコメッリが求めたのは「対象物と距離」です。ジャコメッリは情を差し挟むことなく、対象物を冷徹に切り取っていきます。
また、ジャコメッリが興味を持つ「時間」とは、生きている人間に等しく定められている寿命にも通じます。どんなに権力や財力を持っていても、時間が来れば生を終えます。その時間の観念を、ジャコメッリはホスピスで死の瞬間を待つ老人たちを対象物に借りることで表現したかったのでしょうか。
ジャコメッリの作品世界についての自分の見方を、辺見さんは訥々と語り続けます。
番組冒頭、ジャコメッリの作品展『知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展』(2008年3月15日~5月6日)が開かれていた東京都写真美術館へと向かう辺見さんの姿があります。片足を引きずるように歩いています。2004年、辺見さんは講演中に脳出血を起こして倒れてしまったそうです。生死の境を彷徨う局面もあったということで、長い療養生活を経て現役復帰されたそうです。そうした体験は、ジャコメッリの作品世界の理解を必ずや深めたことでしょう。
辺見さんのお話の中で、私はふたつのことが印象に残りました。ひとつは「異界」についての考え方です。『スカンノ』にしてもホスピスに取材した作品にしても、私たちが暮らす世界にありながら、どこか異なった形をまとっています。
この「異界」が、近代になればなるほど、普通の暮らしをする人間から切り離されていったといいます。この話を聞きながら、私は作家の宮崎学さんがインタビューに答える中で述べていた「中世の時代へ戻るべき」という話に相通じる話のように思えました。
私は姉夫婦の娘、姪によく絵本を読んでやりましたが、『ききみみずきん』という絵本があったことを思い出しました。不思議な頭巾をかぶることで、人間も鳥や動物たちの話が聞き取れるようになるという話です。
人間が、動物たちと会話を交わしながら生きていけるユートピアを連想させる話ですが、自分と異なった形のものとも意思の疎通が図れる世界の方が豊かなのではないか、といった話ではなかったかと思います。
辺見さんのお話でもうひとつ印象に残ったのは、資本主義と映像表現の関係に触れた話です。
辺見さんは、テレビから日常的に垂れ流されるニュース映像とジャコメッリの作品を比べた場合、ジャコメッリの作品に圧倒的なリアリティを感じるといいます。端的な理由をひとつだけ挙げれば、それは、ジャコメッリが資本主義にまったく毒されていないからだ、となります。
家庭や街頭の映像装置からは、のべつ幕なしに映像が流れています。その中のわずか数パーセントには良心的なものが含まれるかもしれないが、残りの100パーセント近い映像は、それを見る人間に消費行動を起こさせることを意図して作られたような商業映像だといいます。
問題は、なぜジャコメッリは資本主義から離れたところで作品を作り続けることができたのかということです。その問いについて辺見さんは、ジャコメッリは常に死と向かい合っていたからではないかというように答えてみせます。
どんな人間にも必ず死が訪れる。それを前提にその時その時を生きていたからこそ、権力からも資本からも自由でいられたのではないか。それ以外には考えられないと辺見さんは述べました。
辺見さんは、「テレビで絵画作品を見るのは愚の骨頂」とおっしゃっています。それをNHKの美術番組の中で述べているわけで、「カットされるだろうけれど」と思ってしまっても不思議ではありません。しかし、どうにかカットされずに放映されました。
私がジャコメッリを知ったのも“愚の骨頂”といわれたテレビの美術番組ですが、辺見さんがおっしゃったように展覧会で作品を見ようと思いましたら、残念なことに既に終了していました。見逃したことを残念に思います。
ただ、幸いなことに、写真作品の場合は絵画作品と違い、写真集でもそれほど変わらないレベルで楽しむことができます。ですので、機会があれば、ジャコメッリの作品集を手に入れ、いろいろなことを考えながら作品に接してみたいと思います。
以上本日は、今年の5月25日に放送になったマリオ・ジャコメッリに焦点を合わせた番組から、彼の作品世界及び映像作品のあり方などに思いをはせてみました。