人工知能(AI)が急速に発達したことが、あらゆる方面に影響を及ぼしています。
今後、それが多くの分野へ浸食し、それまでは人間の手で行われていたことが、AIに置き換わっていくのではと見られています。たしかに、AIに置き換わる業種はあるでしょう。
たとえば、テレビのニュースでニュース原稿を読むだけや、ドキュメンタリー番組で、原稿通りのナレーションを読むだけであれば、人間のアナウンサーに代わり、AIの音声に任せた方が、読み間違いが起こらないなど、便利なことが考えられます。
声だけの仕事であっても、リアクションが求められるようなものであれば、人間がしたほうがいいかもしれません。
国会で速記を取る仕事も、AIの文字変換精度が上がれば、AIに置き換わっていくのではないでしょうか。
速記というのは、特別な訓練を経て身につけるものでしょう。それが、AIの登場によって、仕事の場をなくすというのであれば、長くその仕事に携わってきた人には無念に思われるでしょう。
それぞれの会社で行われている事務の処理も、AIに任されるものは、どんどん、それに任せるような方向へ向かうかもしれません。
そんな風に考えると、逆に、人間でなければできない仕事は何だろうと考えてしまいます。
人が、手を使って作るような仕事は、AIがどんなに進んでも、AIに置き換わることはないように考えます。
しかし、同じ人間が無から生み出すものであっても、それが、ディスプレイの中で完結するものは、将来的に、AIに置き換わってしまう可能性を否定できません。
たとえば、小説を書く作業はどうでしょう。これも、小説家が扱うのは文字です。AIが文字をディスプレイに生み出す技術はほぼ完成に近づいています。
あとは、無から新たな小説を想像する能力ですが、それがクリア出来たら、AIが小説を執筆することも可能となるでしょう。
今回、こんなことを書いているのは、ネットの動画共有サイトYouTubeで次の動画を見たことです。本動画は、私がつい最近になって見始めた、山田五郎氏(1958~)のYouTubeチャンネルにある動画のひとつです。
本動画では、山田氏のYouTube動画を見る視聴者から寄せられた質問に答える形で、山田氏のAIアートに対する考えが述べられています。
山田氏が動画で述べる考え方に私はほぼ同意です。
進んだといわれるAIですが、AIができることは、端的にいえば、ディスプレイに表示される段階までではないでしょうか。
ですから、絵であっても、ディスプレイに表示するような絵であれば、AIに描かせることもできるでしょう。しかし、油彩画のように、人間が油絵具と溶剤、筆などを使い、カンヴァスなどに描くことは、今のAIには不可能です。
以前、レンブラント(1606~1669)の作品をAIに描かせることはできるかといった試みが、新聞に載っていました。それについて、本コーナーで取り上げたことがあったと思います。
そのときの私の結論も、AIには無理ということです。ましてや、レンブラントが今生きているように、新たな作品をAIが描くといったようなことは、おそらく、今後も絶対に無理です。
レンブラントも、初期と最晩年では、油絵具の扱い方が大きく変わっています。初期であるほど、伝統的な絵具の扱い方をしています。
それが最晩年になると、絵具の扱いを極限まで理解し、のちに登場した印象派の画家でさえも実現できなかったような扱い方をしています。レンブラントは63歳で亡くなっていますが、もしも100歳まで生きたら、さらにどのように変わったか、レンブラント自身にもわからなかったでしょう。
当人にもわからないことがAIにわかるはずがありません。
AIにできることは、データの分析です。レンブラントの全作品をデータ化し、分析することはできるでしょう。しかしそれは、生前にレンブラントが残したデータに限られます。
ですから、それから何かを生み出そうとしても、その「模倣」でしかありません。これでは、「新たな想像」などできるはずがありません。
すでに残された名画の「レプリカ」を造ってみても仕方がないでしょう。
AIの話から外れます。
何枚でも刷れる版画と違い、油彩画は一点ものです。作品の優劣を別にすれば、どんな油彩画であっても、世界に一枚しか存在しません。
山田氏のYouTubeチャンネルで取り上げるのは多くの人に知られた画家が描いたものです。それであれば、人気がある画家や作品であれば、多くの人に共有されます。
つまり、一対一が原則の油彩画が、「大衆」を獲得したり、意識したりことが生まれるということす。
その点、無名であれば、大衆の意識がまったくありません。逆のいい方をすれば、大衆を無視して存在しているのです。
ひとつの作品は、それを描いたひとりの画家と、その画家が描いた作品を気に入ったひとりの人との間だけに関係ができます。それを大衆と共有する必要性がありません。
その人が、どうしてもその画家が描いた絵画を自分の家の壁に飾りたいと考えれば、対価を画家に払い、買い取って家に戻ります。それだけのことです。
世の中にはあらゆる表現手段がありますが、油彩画ほど原始的で、個人的なものはありません。
このようにして、関係が成り立つときは成り立つため、その画家がどんなに社会的な問題を持つ人であったとしても、その人の創造活動には何の影響もありません。多くの人がその人を非難し、退けても、たったひとり、その人が描いた油彩画が欲しいという人がいさえすれば、それでいいからです。
これを身近なもので考えれば、婚姻関係がそれに近いでしょう。
結婚するふたりが、世間的には多くの問題を抱えていたとしても、当人同士が互いを愛していれば、婚姻は成立します。ふたり以外の他者は、ふたりの愛には関係が及ばないからです。
テレビの美術番組や、山田氏のYouTubeチャンネルが取り上げる美術作品は、個人と個人の枠を超え、大衆性を持つ作品です。
しかし、それを持たない油彩画であれば、大衆という意識がはじめからありません。
世の中の片隅で、ひとりの人が一枚の油彩画を描き、どこかの誰かが、それを気に入ることで、描いた人と、それを欲しい人の関係が生まれるだけです。
これには、AIが介在する余地がありません
将来、結婚相手がAIになることはある、かもしれませんが。