子豚の「視線」の意味

映画やドラマを漠然と楽しんでいる人は、俳優がどのように演技し、監督やカメラマンが、何を意識して撮影しているかまでは考えたりしない(?)ものでしょうか。

私は古い米国映画が好きですが、いつもそれに注意して見ているわけではありません。しかし、いつもとは違う俳優の「視線」であることに気がつくと、なぜその視線を監督が採用したのかが気になります。

映画における俳優の「視線」については、先月25日の本コーナーで取り上げました。

注意して見れば気がつきますが、演技をする俳優は、たいていの場合、レンズを直視しません。レンズの直視は、映画やドラマを見る観客の眼を直視するのと同じことになります。

映画やドラマでその「視線」を採用すると、多くの場合は不自然になります。なぜなら、たいていの場合は、三人称的に撮影されているからです。

そのように製作された作品を見る観客は、三人称の眼で作品を鑑賞します。

三人称で製作する場合、各場面を撮影するカメラのレンズは、その場には存在しないことを前提にします。存在しないものを、演技をする俳優が、意識して見たらヘンなことになるという意味が、これでだいたいおわかりになったでしょう。

ですから、特別な意図を持たない限り、俳優はレンズを直視しません。

例外的な表現を今週の水曜日に放送された英国のテレビドラマで見ました。私が毎週録画し、再生させて楽しむ習慣の『名探偵ポワロ』です。

このドラマが水曜日の午後9時からNHK BSプレミアムで放送されています。

英国で制作されたポワロ・シリーズは全部で70話あり、この水曜日に放送されたのは50話の『五匹の子豚』1942)です。これが製作された頃になると、飛び飛びで作品が作られるようになり、本作と前作の間には3年のブランクがあったことがわかります。

英国の初回放送は2003年12月14日(日本の初回放送は2005年8月25日)で、シリーズ1話が放送された1989年1月8日(日本は1990年1月20日)からは15年ほどのちになります。

主人公のポワロを演じるデヴィッド・スーシェ1946~)も、その年数の経験を積み、演技にも重厚感のようなものが漂っています。

本シリーズでは、おそらくは原作ではそれほど重要ではない(?)ヘイスティングス大尉や、ジャップ警部、秘書のミス・レモンがレギュラー出演者のような扱いですが、本作には登場しません。

私の個人的な感想ですが、彼らが登場しない作品のほうが、本格的であるような印象です。

この水曜日に放送された作品のタイトルとなっている『五匹の子豚』は、殺人事件の容疑者が5人に限定され、果たしてその中に真犯人はいるのか、ポアロが5人に会って話を訊きながら推理を深めていくことを意味します。

原作では16年前に事件を警察が調べ、容疑者とされた女が終身刑になったとされています。ドラマでは、16年前が14年前に、終身刑は絞首刑に変更されています。

絞首刑になる前、死刑囚となった女、キャロライン(原作では「カロリン」)・クレイルが娘のルーシー(原作では「カーラ・ルマルション 」)に手紙を書き残していました。その手紙を、ルーシーが成人してから受け取ります。

手紙で母は娘に、自分の無実を訴えていました。ルーシーはポワロに会い、母が無実であったのか調べて欲しいと頼む設定です。

キャロラインの周りにいた5人のうち、ふたりの男は、キャロラインの幼馴染です。ひとりはキャロラインが殺したとされる夫で、画家のアミアスの友人のフィリップ・ブレイクで、もうひとりはフィリップの兄のメレディスです。

残りの3人は、画家のアミアスの前に突如現れ、妻からアミアスを奪おうとする若い女のエルサ、キャロラインの異父妹(原作では異母妹)のアンジェラ、アンジェラの家庭教師のセシリア・ウィリアムズという中年女性です。

アンジェラとキャロラインは歳が離れており、アンジェラは右目が白く濁っています。アンジェラがよちよち歩きをする頃、10代だったキャロラインが、何かの理由で文鎮を投げつけ、アンジェラの右目を失明させてしまったのです。

キャロラインの娘のルーシーに依頼されたポワロが、キャロラインが絞首刑になった14年後、5人に会って、キャロラインの夫、アミアスが殺された日のことを訊くというのが本ドラマの筋立てです。

ドラマを見ながら、黒澤明監督(19101998)の『羅生門』1950)を思い出しました。黒澤の『羅生門』では、山道でひとりの武士が盗賊に殺されます。

事件のときの様子を当事者に訊くと、一人ひとりのいい分が異なるもので、真相は藪(やぶ)の中と描かれます。

本作では、キャロラインが犯人でないとしたら、5人の中に犯人がいたことになります。5人が同じ状況にありながら、別の視点でそれを見ていたことをポワロに語ります。

本作を私が見て気がついたのが、冒頭で書いた、俳優の「視線」です。通常はカメラのレンズを直視しないことはすでに書きました。それが本作の回想場面では、レンズを直視することがたびたびありました。

本作の監督が、なぜそのような撮り方をしたのか考えてみましょう。

回想場面は、それぞれの人間が、自分の眼で見たことを思い出してポワロに語るように描かれています。

カメラは手持ちで撮影されたように、わざと安定させていません。色彩も、現実の世界を描く場面と違い、ややハイキーで、14年前に撮影されたフィルムに見えるように加工されています。

Erik Satie – Gnossienne No.1 (Extended)

そして、回想する当人以外の俳優が、レンズを見て演技をしています。

これは私の想像ですが、監督は回想シーンを一人称的に撮りたかったのではないかと考えます。映像における一人称は、カメラのレンズが主人公の見る世界になります。

その場合、主人公以外が主人公と会話するときは、主人公の眼を見ることになり、レンズを直視します。

ただ、この撮り方では見る人がわかりにくいと考えた(?)のか、回想する人物も客観的に撮影しています。その場合は、通常のシーンと同じように、出演者は誰もレンズを見ずに演技をしています。

映画やドラマはプロが製作するので、観客にカメラを意識させないような作り方をします。しかし、俳優の視線を注意して見ることで、監督の意図を読み取ることができます。

そのあたりを楽しむのもときには面白いので、お勧めします。

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