本コーナーでは昨日、生き方も風貌も“仙人”と呼ばれるに相応しい熊谷守一という画家について書きましたが、本日も本日で、極めて風変わりな画家について書こうと思います。
彼については、その存在を知ったときから書こうと思っていましたが、踏ん切りがつかず、これまで先延ばししてきました。その画家の名は、ロベール・クートラス(1930~1985)といい、この名前からおおよそ想像がつく通り、彼はフランスの画家です。
私がこの画家を知ったのはつい最近といってもいいほどです。昨年の秋、レンブラントを特集した「芸術新潮」の11月号を買い求めたわけですが、その雑誌の中で初めてこの風変わりな画家の存在を知り、同時に、作品というよりも、人物そのものに強い興味を持ちました。
彼を取り上げた5ページの内最初の2ページには、彼の作品が原寸大で所狭しと並べられています。それらは「カルト」と呼ばれるもので、タロット占いに使うカードを思い浮かべていただければいいと思います。
クートラスという画家は、そうしたカルト状の作品を約6000枚も描いたといいます。
私は本物を見たことがないのでわかりませんが、この特集コラムをお書きになっている作家の堀江敏幸(1964年、岐阜県多治見市生まれ。明治大学助教授。1999年『おばらばん』で三島由紀夫賞を、2001年『熊の敷石』で芥川賞を、2003年「スタンス・ドット」で川端康成賞を受賞。著書に『郊外へ』『子午線を求めて』『いつか王子駅で』『回送電車』『本の音』『ゼラニウム』=参考ページ「新潮社>考える人」)さんが実物を観察した感想によれば、「ちょっと見には板絵のように感じられる」そうですが、実は縦12センチ、横6センチに裁断した厚紙を支持体に使っているのだそうです。
これは、経済的に余裕がなかったがゆえの知恵で選ばれた支持体で、画材用の厚紙ではなく、それこそ有り合わせの厚紙で、ティッシュペーパーの箱や「なんでも屋が配った客寄せカード」なども使ったようです。
そうした厚紙に壁面用の塗料を地塗りし、その上に油絵具で描いていくことになります。
彼は自分の作品を「わが闇(Mesnuits)」といい、中世以来おなじみの骸骨やマリオネット、道化師、植物、動物、昆虫、文字、あるいは、ちょっとばかりエロティックな図柄をモチーフにして、それらを無限に表現していきます。
雑誌で紹介されている幾枚かを見渡してみても、描かれたものは多用で、顔の付いたお日様のようなものが縦に三つ並んでいるかと思えば、幕の間から覗くウサギの絵があり、また、裸の女性がお尻をこっちに向けているものもあります。かと思えば、色面だけで構成されたものもあります。いずれもが単純な線や色面で描かれています。
このクートラスという画家は、1930年、パリのモンパルナスに生まれたそうですから、いわゆる生粋のパリっ子ですが、両親の仕事の関係からか、10代半ばでフランス中央部へ移り住むことになります。
彼は早くから芸術を志し、朝の5時から昼の1時までは工場で働きながら、その後、午後はその土地で制作を続けていた彫刻家の下で木彫を学び、夜は夜で地元の美術学校へも通う、というハードなスケジュールの中で仕事と勉強を両立させていたようです。
その後、1953年、23歳になったクートラスはリヨン(Lyon:フランス南東部、ローヌ・ソーヌ両川合流点にある都市。ローマ時代に起こる。大聖堂・大司教館・大学などがある。繊維・機械などの工業が発達。人口41万5千〔1990年時点〕=広辞苑)の美術学校へ入学しています。
美術学校で専門的な知識と技術を習得した彼は、「最後の印象派」と呼ばれる画風を掲げて画廊で個展を開いたり、1958年には上京したパリで賞を得て大手画廊と契約を結ぶなど、画家としてまずまず順調に歩み出します。
しかし、望んでもなかなか結べない画廊との契約を数年で解消してしまいます。その理由は本人にしかわかりませんが、想像するに、いわゆる“売り絵”を制作しなければならない現実と、真に自分が描きたい作品との間には決定的なズレがあり、それが短期間の内に、自分の中で修復不可能なほど大きなものになってしまったのではないか、と勝手に想像してみました。
加えて、彼が本来持つ、孤独な性格が大きく影響していそうです。
コラムの3ページ目には、仕事場に座る彼の姿を撮しとめた写真があります。そこに写る彼の表情は、決して愉快そうには見えません。
その制作環境が何とも風変わりです。何と、ベッドの上の狭い空間が彼にとってのアトリエであったといいます。
彼は、パリのアパートの一室に暮らし、そこで寝起きし、ベッドの上で小さな小さな作品を6000枚も描き続けたのです。
そうやって制作された作品は、長い年月を経たかのように、ところどころに虫食いのような跡や自然に剥がれ落ちたような箇所が見受けられますが、それはクートラスが床にこすりつけるなどして意識してつけたものだそうです。
昨日書いた熊谷守一にしろ今日のクートラスにしろ、世間一般の常識からいえば、理屈に合わない生き方をしたといえます。彼らには、それ相応の腕前があり、それを器用に活かせば人並み以上の生活ができたはずです。であるのに、敢えてそうした道を自ら断っています。
その“代償”として、豊かな生活は送れず、極貧の中で生き続けなければならなくなります。しかし、それは彼らにとっては代償なのではなく、それこそが信ずるに足る道だったのでしょう。
画家にとって代償があるとしたら、それは、むしろ豊かで何不自由ない生活の方にこそあるといえましょう。
人間というものは情けないもので、何不自由ない生活の中からは、真に意味のある作品は生み出せないのです。そして、苦しみこそが画家に名作を生み出させるのだとしたら、画家というのは因果な職業です。
その証拠には事欠きません。
私が最も敬愛するレンブラントにしてもそうです。絶頂期には満ち足りた生活を送りましたが、その時期に描かれた作品は、晩年の作品に比べれば明らかに力が劣ります。要するに、技術云々ではないということです。人は技術によっては感動しません。
愛する妻のサスキアを失い、愛人のヘンドリッキェにも先立たれ、一人息子のティトゥスも亡くし、挙句の果てには財産を没収されて一文無しになって、屋根裏部屋のようなアトリエへと追いやられます。
そうした全く希望の光が見えない中で制作された晩年の作品こそ、見る者を深い感動へと誘う力を持っているのです。
彼と同郷で、幼馴染の画家にヤン・リーフェンスという画家がいます。彼は、画家としても一人の人間としても順調な人生を送りますが、それゆえに、レンブラントの生まれ故郷でもあるライデンで二人して競うように腕を磨いていた頃にはレンブラントと同等の腕前を持ちながら、その後の人生が順調すぎたために作品に深みを増すことができず、現在はレンブラントを語るときに添え物として語られるのみです。
しかしそれも含め、これは一人の人間が自分の人生を望んで得られるものではないことをも意味しています。
レンブラントにしても、人並みに幸せな人生を望んでいたはずです。しかし、不幸が重なり、それが結果的に作品を味わい深いものへと昇華させることができただけのことなのかもしれません。
話をクートラスに戻せば、生前の彼を知る人の証言によると、彼は動物と対話できる特殊な能力も備え持っていたようです。アトリエである彼のアパートにはハトが友だちのように遊びに訪れ、市場で買ったネズミは大切に育て、絶対の信頼関係で結ばれていたといいます。さらには、枯れかけた鉢植えの植物でさえ、彼の手にかかるとたちまち元気を取り戻したそうです。
1985年、クートラスは55歳でこの世を去りますが、相続人の意思により、彼の遺体はサント・ジュヌヴィエーヴの丘にあるサン・エティエンヌ教会にしばらく安置されたそうです。
クートラスは究極の無心論者であったそうですが、それでも生前、その教会を一つの空間として愛していたことが仲間の間では知られていたからです。
教会や信仰とはおよそ縁がなさそうに見えるみすぼらしい身なりの芸術家仲間によって運び込まれたクートラスの遺体は、おそらく突然の申し出であったにも拘わらず、司祭の取り計らいで快く迎え入れられ、クートラスの魂は生前愛した空間での停泊を許されました。
ともかくも、15坪の庭で飽くことなくモチーフを観察し、4号の小品を描き続けた熊谷守一と、ベッドの上で掌に隠れそうなほど小さな作品を作り続けたクートラスには多くの共通点が見られます。
彼らは世俗的な名声には全くといっていいほど関心を示さず、ひたすらに自らが創り出すべき作品世界に意識を集中させていきます。その一途さが間違いなく作品に強烈な力を与え、それがあって初めて見る者の目を捉えて離さない強さを持つのです。