本日も、本コーナーは思いつきの独り語り「気まぐれトーク」の形式にて更新しています。なお、トークは前日の夜に行っています。
本日分の内容につきましては、音声ファイルでご確認下さい。で、そうされない場合は、下にトークを要約して書き起こしていますので、それをお読みになって、トークのだいたいの流れをご想像下さい。
なお、音声ファイルはmp3方式にて紹介しています。再生箇所は前後に自由に移動させることができる、と思いますので、下の書き起こしで見当をつけ、聴いてみたい部分だけを“つまみ聴き”するようなこともできます。ご自由にお楽しみ下さい(^ー^)ノ
トークを要約した書き起こし
今回も夜にトークをしている。前回のトークでお話したように、トークに使うマイクが少し上等なものになった。トークでは値段的には【2倍】ほどといっているが、これは単純な計算間違い。正確には約【3倍】。
3倍の値の筆で絵を描いたからといって、腕前が急に3倍増しにはならないように、3倍高価なマイクでトークをしても、お粗末なトークはお粗末なまま(´Д`;)トークが上手になりたいとはちーとも思わないが、道具に費やした分ぐらいは元を取りたい、かな(^Q^)
今回は、土曜日の昨日(9日)、午後6時台に聴いたFM番組について話してみることにする。とっても面白い番組だったので。
その番組名とは、NHK-FMのリクエスト番組「サンセットパーク」。
この番組名では13年間続いたが、先月の25日で番組は終了してしまった。しかし、東日本大震災が発生したことで、11日金曜日と翌週1週間は番組が休みになってしまった。
そこで、特別プレゼントとして、今月の土日は、午後6時台に「サンセットパーク」が復活した! というのはσ(^_^)私の単なる希望。“みなさまのNHK”であるはずなのに、こんな気の利いたサービスはしてくれそうな気配は微塵もない。
まあ、それはともかく、私は昨年の11月下旬まで、FM放送(超短波放送)を聴くための機器であるチューナーは、長いことスイッチの壊れた状態で使っていた。スイッチを入れても戻ってしまうので、テープで止めて使うといったありさまだったf(^_^)
すぐに対策をとればいいものを、先延ばしし、だましだまし使っていた。それが、昨年の11月下旬になり、やっと重い腰を上げ、やっとデジタルのチューナーを手に入れて使い出した。
それに換えるまで使っていたのはアナログのチューナーで、選局も自分の耳と手が頼りだった。そのため、ほとんどはNHK-FMに合わせっぱなしの状態だった。それが、デジタル選局になったことで、テレビのチャンネルを変える感覚で選局ができるようになった。今はFM局の数も増え、民放のFM番組も楽しむ習慣がついた。
私の場合は、午前中は「InterFM」(エフエムインターウェーブ)、午後は「J-WAVE」(J-WAVE)を聴くことが多い。
NHK-FMの「サンセットパーク」が3月25日で終わり、2週間経った8日の午後6時台、私は聴くともなしに「InterFM」の放送を部屋に小さなボリュームで流していた。その番組はその時に初めて聴いたと思う。1時間聴き終われば非常に内容の濃い番組で、終わってから「エアチェックするんだった」と後悔したほどだ。
どんな人が番組を進行しているのかも知らずに聴いていた。聞こえてくる声は女性と男性で、おふたりとも落ち着いた声であることから、それなりの年齢のふたりであることはわかった。
おしゃべりに興味を持ち始めたのは、その日のゲストが水森亜土さんであることがわかった辺りからだ。
水森亜土さんのことは、昔からよく知っている。といっても、もちろんテレビを通してだ(^m^) 透明なアクリルボードの向こうから、亜土さんが油性のカラー・マジックか何かでイラストを描く様が今も記憶に鮮明に残っている。
亜土さんは、昔から一貫して独特な雰囲気を持っていたが、お年を召してもそれがちっとも色あせていないのが素晴らしい。ちなみに1939年生まれらしいので、12月23日になると72歳になられる計算だ。お声を聞く限り、昔と同じだった。
番組を持つ女性と亜土さんが、昔からの仲間であることがわかった。番組では、ふたりが初めて出会ったときの話から始まった。トークではサラッと話しているが、実際のトークはそれよりもずっと濃厚で、それを聴きながら、番組を担当するのがどんな女性か興味を持ち、番組を聴きながらネットで調べたりした。
その女性は、ホキ徳田という人だった。前にもお名前は存じ上げていたようにも思うが、どんな人生を歩んでこられた方であったかは知らずにいた。
ネットで調べると、華やかな人生を歩んでこられたようであることが想像できた。生まれは東京の上野で、お父さんはNHKの解説委員をされたそうである。ホキ徳田さんは今年74歳になられるようだが、そのお父さんが放送界で働いていたわけで、時代の先端を行くような家庭にお育ちになったことになるか。
幼い頃からピアノと音楽を習ったりされていたようで、日本で高校を終えたあと、カナダに渡ってピアノと作曲を学んでいる。ちなみにご本名は「浩子」さんで、学友がなまって「ひろこ」を「ホキ」といい、それを芸名にされたようである。
当時はまだ航空路線は整備されておらず、外国へ行くのも、日本に戻るのも客船が使われていた時代である。日本に戻る船上でホキ徳田さんと水森亜土さんが出会う。水森さんはハワイからの帰りで、途中で乗船したことになる。
船の上でできることは限られる。亜土さんが甲板にいると、ひとりの女性が水着姿で通った。それが、亜土さん曰く「胸がボン! ボン!というナイスバディ!!」で、それが若き日のホキ徳田さんだった。トークでは詳しく話していないが、超ビキニで、胸と股間を覆う布は申し訳程度についているほどだったそうだ。
最後には、自分を見ている亜土さんの前で、股間を覆っていた「糸のように細い水着」(亜土さんの“証言”)を下ろしたりしたそうだ。亜土さんは昔に見た出来事をつい最近の出来事のようにありありと憶えているようだ。そんな思い出話が亜土さんの口から飛び出し、ホキ徳田さんは困ったような、でも懐かし嬉しそうに「そんなことしたっけかなぁ。ブラジャーなら外すことはよくあったけれど」と話を受け止めた。
幸運なことにも私がたまたま聴くことができた番組は”TWILIGHT MEMOIR”というが、日本語で「北回帰線」という“副題”もついている。
ホキ徳田さんは、当時はまだ西洋では東洋人の女性も珍しかっただろうし、また、上でも書いているように美貌に恵まれていたため、常に男性陣の視線を集めていたそうだ。ご自身も「男性の出入りは多かった」と認めている。
ホキ徳田さんが29歳の時、46歳年上のヘンリー・ミラーに求婚されて結婚している。しかし、3年ほどで別居生活になり、そののち離婚している。
ホキさんと亜土さんは、おふたりで息のあった歌を何曲も生で披露してくれた。それが決まり切った歌唱と演奏ではなく、そのときのアイデアで、ここはピアノ伴奏で、とかの注文をホキさんが入れる形で演奏された。ピアノ伴奏はもちろんホキさんだが、これがまた絶妙だった。
亜土さんが「何千曲もピアノで演奏できるんでしょ?」というと、ホキさんは「一度聴いた曲だったらだいたい即興で演奏できる」というような話をされていたように記憶している。これぞ! プロフェッショナル! の凄さを見せつけられた思いだ。
このたびの大震災以降、テレビを見ても新聞を読んでも、そしてラジオを聞いていても、必ず大震災の話が登場する。それは仕方ないのかもしれない。しかし、土曜日の午後6時台に聴いたホキ徳田さんの番組では、地震の話はまったく出てこなかった。まさに別天地といった感じ。
ときには、思い切り肩の力を抜いて、こんな“別時間”を過ごしてみても罰は当たらない、だろう(´・ω・`)?