朝日新聞の一面コラムに「折々のことば」があります。それがこの16日分で連載3000回を迎えました。
これをあらかじめ記念する催しのトークイベントが先月27日、大阪市北区の朝日新聞大阪本社で開催されたそうです。その模様の一部が、昨日の朝日新聞に載りました。
トークイベントで対談したのは、「折々のことば」を担当する哲学者の鷲田清一氏(1949~)とNHKの元アナウンサー、山根基世氏(1948~)のおふたりです。
その記事に添えられた見出しを見て、そうだ、と膝を打ちました。対談中の山根氏の発言がそのまま次のような見出しになっています。
立て板に水より 誠実に語る人の方が伝わる
その部分を、そのまま引用させてもらいます。
アナウンサーも立て板に水のように話すのがいいと思われているけれど、そういう言葉は胸に落ちないことが多い。自分の心の中を探りながら誠実に語る人の方が、伝わりますから。
鷲田氏は、司会者の別の問いかけに、「子どもの言葉で一番好きなのが『ふうん』って言葉なんですよ」と話しています。
今は多くの人が動画を撮影し、それを、ネットの動画共有サイトYouTubeなどで配信しています。中には、毎日のように配信するVloggerがいます。
Vloggerに共通するのは、動画に配信者が登場し、カメラに向かって話をするスタイルです。それらを見ていて感じるのは、立て板に水とはいいませんが、それに近い話し方をする人が多いことです。
私も以前は車の免許を持っていた時期があるので、自分で車を走らせました。その後、自分には車の運転が不向きであるため、免許の更新を見送り、免許の資格を失効しました。
それ以降は、それ以前と同じように、私の移動手段が自転車になりました。
自転車は、自動車に比べて移動範囲が狭くなります。しかし、近い距離の移動であれば、自転車には自動車にはない利点があります。
それは、周囲を観察しながら走れることです。自動車はスピードが速いため、観察目的では、自転車に劣るでしょう。
それに通じると思いますが、自動車は移動速度が速すぎるように私は感じます。人が歩く速度の何十倍、あるいはそれ以上の速度で走ります。それは、人間が操れる範囲を超えているように私は考えます。
その点、自転車は、歩く速度よりは速いものの、人間が制御できないほどではありません。ということで、私は、自転車が人間の移動手段には最も適っていると考えます。
人が話すスピードが、今書いたことに通じるように思います。
文章を自分で読むのであれば、自分に合った速度で読み進められます。一度で理解できなければ、前に戻って確認もできます。それが他者の話し言葉になると、自分が相手に合わせなければなりません。
人それぞれで「処理能力」のようなものは違います。
今の若い人はそれが「発達」しているのか、映画をネットで見る時は、速度を二倍にしたりするそうです。それだから、YouTubeで動画を見る時も、速度を上げて見たりするのかもしれません。
私は「処理能力」が劣るのか、なんなら、定速より遅くして見聞きしたいぐらいです。
それであるのに、Vloggerの多くは、次から次に言葉を発することが多いため、私のような人間は、見聞きしていて疲れてしまいます。
私もYouTubeには自分のチャンネルを持っています。私は自分の姿を登場させることはしませんが、話す言葉を自分の動画によく使っています。
そのほかにも、本コーナーでは以前、「気まぐれトーク」と題して、気が向いたことを話し、それをあとで文字に起こして更新するようなことをしました。
いずれのトークも、私の場合は、立て板に水とは逆の話し方をしています。意識してそうしているわけではありません。それが私の持って生まれたスタイルです。
本コーナーの文章を書くときも、立て板に水のように文字を打ち込んでいるわけではありません。考えては文字にし、また考えて、文字に変換します。
話すときも同じで、考えては話し、話しては考えることの繰り返しです。話と話の間に、何も話さない間ができることもよくあります。
二倍速で聴きたいような今の若い人には、「まだるっこしい」と感じるでしょう。
本コーナーで取り上げた山根氏の話は、トークイベントのおそらくは司会役であった朝日新聞の女性記者の次のような「誘い水」でした。
旧知の銀行員の「口下手な行員のほうが成績がいいんです」という言葉を取り上げた回もありましたね。
それを書いた鷲田氏はその回を憶えていて、すぐに「これ、好きなやつ」と語っています。
鷲田氏は、「朗読ってへたくそなのが一番いいんじゃないか」と述べ、それを受けた山根氏は「うまい必要ないんですよ。声ってね、人の肌に入る気がするんです」と話しています。
声は人の肌から入るですか。なんとなくわかります。それだったら、考え考え、ゆっくり話した方がよさそうですね。機関銃のように休みなくしゃべったら、かさぶたのように、肌の表面に、入り込めずに、相手が発した声が溜まってしまいます。
止むことを知らない機関銃のような話し方をする人の話は、もしかしたら、話されたことの半分、あるいはそれ以上、「消化」仕切れずに終わってしまうかもしれません。
話す人が、考えながらゆっくり話せば、それを聴く人も、考えながら、ゆっくり耳を澄ますことができます。結果的には、その方が、相手に話すのにも、相手の話を聴くのにも、一番いいんじゃないかと思えます。
映画やドラマを本来の速度の二倍などで見る人は、とにかく、全体の粗筋のようなものがわかればいいといった考えを持つようです。それでわかるのであればそれでいいでしょうが、フルスピードで夢中になって自動車を走らせている人のように思えます。
その人が見落としたものが、その人にとって実は大切なものであったかもしれません。それに気づけないのは、その人に幸福なこととは思えません。
そうであってもなくても、私には私の話し方しかできないので、今後も、自分で何かを話してネットに上げる時は、ゆっくり、考えながら話すことになるでしょう。