私は昔から「いい人」が嫌いです。私がいう「いい人」がどんな人を指すか、だいたいわかってもらえるだろうと思います。
朝日新聞の一面コラムに、鷲田清一氏(1949~)が担当される「折々のことば」があります。
コラムには番号が振られており、本日分には【2273】とあります。本日までにそれだけの回数、コラムを書かれたということです。それぐらい続いているコラムです。
私はそのコラムを読まないことも多かったのですが、最近は、気がつけば目を通すようにしています。
そのコラムでは、鷲田氏がさまざまな媒体から拾った、主に著名人が残した言葉を紹介し、鷲田氏が簡単な解説を添えています。
今月20日分では、森毅氏(1928~2010)の次のような言葉を紹介しています。
戦中の「よい子」は、戦後も「よい子」でありつづけたし、戦中の「悪い子」は、戦後も「悪い子」でありつづけた。
これは、森氏の評論集『ひとりで渡ればあぶなくない』(1989)から拾った言葉だそうです。鷲田氏の解説がなければ、森氏の言葉を間違って受け止めかねません。
ここで書かれている「よい子」は、私の嫌いな「いい人」と同じ意味です。
鷲田氏は、森氏が残した「よい子」を次のように解説しています。
戦中は報国に身を捧げるのが、戦後は民主主義を謳(うた)うのが「よい子」とされた
それに続けて、森氏は、国家や学校の先生のいうことを上手に聞く子が気に食わない、と書いています。私も同じ意味で「いい人」が嫌いなのです。
権力者の周りには「いい人」が集まります。
安倍晋三氏(1954~)が首相をしていたときは、有名人や著名人が、安倍氏にとっての「いい人」になり、蜜に群がる蜂のように、近づいていきました。それを端的に示したのは、安倍氏が毎春の桜の時期に主催した「桜を見る会」(1952~2019)です。
そのときの写真や映像が残っていますから、あとになって、なかったことにはできません。安倍氏を囲む人はみな作り笑顔が上手です。馬鹿芸人やバカスポーツ関係者も「いい人」になって(=バカ面下げて)写真や映像に収まっています。
安倍政権が続く間は、テレビに登場するバカ芸人が、テレビの媒体を使って安倍氏を懸命にヨイショしていました。
同じような構図が、普通の人々の間でも見られます。
今月の18日に朝日新聞の文化面に載った記事に「政治の言葉 どう向き合うか」があります。朝日新聞の記者が、政治学者の原武史氏(1962~)に話を訊き、まとめたものです。
原氏は、先の大戦の終戦の年にあたる昭和20年3月に、ある作家があることを憤慨したことを紹介しています。
その年の3月、米軍によって東京大空襲をされます。
その惨状を昭和天皇(1901~1989)が視察します。その一部を、作家の堀田善衛(1918~1998)が、都内の富岡八幡宮で目撃します。堀田によりますと、当地を視察に訪れた昭和天皇に、その場にいた民衆が土下座し、その中のひとりが「私たちの努力が足りず申し訳ない」といったそうです。
当時の民衆は、戦争を始めたくて始めたわけではありません。そんな民衆はいないでしょう。当時の軍部が開戦に追い込まれ、新聞やラジオが戦意を煽り立て、民衆は「いい人」になって戦争に参加していったのです。
どこまでが本当かわかりませんが、ゼロ戦で敵に特攻するとき、「天皇陛下万歳」と絶叫したと聞きます。
天皇を守るために我が身を犠牲にした人もいたでしょう。それが、日本の敗戦に終われば、天皇の戦争責任を問うのではなく、逆に、自分たち民衆の力不足のせいで日本が敗戦に追い込まれた、と土下座までして天皇に謝るのが「いい人」というわけです。
その光景を目にした堀田は、「そんな法外なことがどこにある!」と憤ったというわけです。
日本は世界で唯一の被爆国です。一発目が落とされた広島ですが、その爆心地は広島平和記念公園になっています。その公園内に慰霊碑が立てられていますが、そこにはどんな言葉が刻まれているでしょう。なんと次のような言葉だそうです。
安らかに眠ってください。あやまちは再び繰り返しませぬから。
ルバング島から終戦30年目にして帰国を果たした小野田寛郎氏(1922~2014)が当地を訪れ、慰霊碑の言葉を確認して驚き、嘆いた話は、本コーナーで以前書きました。
堀田氏が目撃して憤慨した構図と同じです。日本においては、誰がどんな罪を犯しても、それを言葉に出して非難するのではなく、自分が少しも悪くなくても、自分をとことん蔑み、懺悔するのが「いい人」とされるのでしょう。
世界で唯一原爆を落とされたのに、落とした米国を非難せず、「あやまちは再び繰り返しませぬから」と自分の国が悪かったという国民が、日本のほかにどこにいますか? この碑文を擁護して、主語は「人類」といい包(くる)めたりしますが、それは詭弁というものです。
戦勝国の米国に遜(へりくだ)った日本の役人か誰かの発案で刻まれた言葉でしょうよ。
鷲田氏の「折々のことば」をもうひとつ紹介します。今度は、昨日24日に紹介された福田恆存氏(1912~1994)の次の言葉です。
恐るべきは、現代の文明社会にも呪術が跡を絶たぬということではなく、呪術が呪術にすぎないという自覚の失われてしまったこと
福田氏の『藝術とは何か』から引用した言葉です。
呪術などといいますと、ずいぶん昔の話のように思われるかもしれません。現代を生きる人間が、そんなものに左右されるはずがない、と。
ところがどっこいです。鷲田は、現代文明の今も、それと無縁ではない、と次のように書いています。
民主主義の世も例外ではなく、報道や広告メディアが吐き出す「大義名分」や「固定観念」の魔術的暗示にいともたやすく高ならせると。
マスメディアや広告メディアが、呪術で民衆を操っているのに、それに気づかず、すぐに「興奮のるつぼ」に巻き込まれる、と福田氏は警告している、と鷲田氏は知らせているのです。
今の新コロ騒動がまさにそうです。
今の騒動が悪魔的暗示であることを、もういい加減、疑いませんか? それでも、権力者にとって「いい子」な人間は、権力者に盛んに尻尾を振り、自分の身に及ぶ危険に気づかずに生きていくのでしょう。
先の大戦時、尻尾を振って戦地へ赴いた先人たちのように_。