昨日の産経新聞と今日の朝日新聞には期せずして、「NHK紅白歌合戦」を取り上げた批評が掲載されています。
私自身は、いつも本コーナーでも書いているように、「反紅白」の立場を採っています。別に大した理由があるわけでもありません。バラエティ番組が不得意なNHKが無理して視聴者を喜ばしている感じがして、それがどうにも受け付けにくいのです。
その昔、午後9時に番組がスタートしていた時代、「紅白」はそれなりにオーソドックスな姿を保ち、視聴率も現在の5割増しぐらい稼いでいたと記憶しています。それが、いつの頃からか、放送時間が前倒しになり、それにつれて、過剰演出が加速していきました。
朝日の今日の批評によれば、今回の「紅白」には紅組・白組合わせて62組もの出演者があったそうです。いくらなんでもこれは多すぎではないでしょうか。いくら「紅白」好きの人間がいたとしても、これをはじめから終わりまでテレビの前で見ているとは到底思えません(実際にいたらごめんなさい)。
しかし、こうまでして盛り上げたはずの「紅白」が、何の演出もない裏番組に負けたそうです。それも、惨敗といってもいいほどの負けっぷりです。
それはいわずと知れた「曙×ボブ・サップ戦」です。
私はヘソ曲がりなので、いずれの番組も全く見ませんでしたが、曙太郎(1969~)とボブ・サップ(1973~)が対戦していた時間帯、「紅白」の視聴率(35.8% いずれも関東地区、ビデオサーチ調べ)を大きく上回る43.0%を記録していたそうです。
「紅白」が国民的番組といわれていた頃は、一時的であれ、まさか「紅白」以上の視聴率を稼ぎ出す番組が現れることなど想像することもできなかったのではないでしょうか。しかも、NHK関係者にとってはショッキングだと思われるのは、番組全体の平均視聴率です。
本来であれば視聴率を稼ぐべき「紅白」の後半は「45.9%」と50%さえも取れず、「紅白」史上最低を記録したそうです。一方、「曙×ボブ・サップ戦」を放送したTBSは視聴率をグンと伸ばし、「19.5%」とこれまでの「紅白」裏番組史上最高の視聴率を獲得する結果になりました。
私自身はこの視聴率というものにそれほどの価値基準は置いていません。それが高い低いといって別に番組の内容とは関係ないと思っているからです。それでもこの「紅白」の凋落ぶりには目を覆うものがあることも事実です。
ただ、こうした事態を受けてもNHKの海老沢勝二会長(1934~)は少しも落胆せず、昨日の記者会見でも「視聴率は参考であることは間違いない。ただ、絶対であるわけではない」との強気の考え方を示し、問題の「紅白」についても、「紅白は今後も50年、100年と続く」と述べたそうです。
「紅白」ファンのみなさんにとっては心強い会長のお言葉ではないでしょうか。
ただ、別の人が会長に就けばこの方針はいとも簡単に変更されるでしょう。現に、今は亡くなられた島桂次会長(1927~1996)のときには一度、「紅白」の打ち切りが囁かれました。
それにしても、「50年、100年と続く」というのは、いくらなんでもいいすぎではないでしょうか。第一、今のこの時代の流れが異常に速いときに、誰が50年後のことを明確にイメージできるでしょうか。ましてや、100年後となったらお手上げです。
「紅白」が50年持つかどうかよりも以前に、NHKそのものが今の形で50年後にあると保証することさえ危ぶまれると思います。
ということで、これは海老沢会長の負けず嫌いの気持ちから発せられた暴言あるいは妄言(でまかせに言うことば=広辞苑)の類に近いものであるといわざるを得ません。
昨日の産経新聞「直言 曲言」では、評論家の佐怒賀三夫氏(1926~)が、「テレビ番組は経済的消費財か」と題する批評をしています。
その中で佐怒賀さんは作家の小林信彦氏(1932~)のかつての指摘を取り上げています。それが、以下に抜粋した部分です。
番組は作り手にとってもっぱら効率万能の道具と化した結果、作り手も『作品』とは思わない。作家の小林信彦氏によれば、こうした風潮は1980年以後、顕著になったという。テレビの急速な技術革新とそれは軌を一にしている。情報が大幅に機械処理される度合いに準じて、経験とか知恵とかコミュニケーションといった文化や歴史における人間的部分が欠落するのだ。いきおいワースト(番組)の品評会になるのである。
佐怒賀さんは、年末年始の「ワースト番組」をある週刊誌から求められたそうです。それは今やテレビ考えるとき、「ワースト番組」が基準となってしまっていることを意味します。佐怒賀さんは「ベスト(番組)でないところがわびしい」と感想を漏らしています。
その佐怒賀さんが、「紅白」についても次のように書いています。
例えば大みそかのNHK「紅白歌合戦」では、お茶の間デジタル審査員がウリだった。リモコンの赤と青のボタンを押し分ければ番組に審査員として参加したことになる。パソコン並みの双方向機能もいいが、作り手が明確な意思を打ち出し、それを受けてこそ初めて視聴者が感動をするのだ。それが文化としてのテレビの在り方ではなかったか。いや「作品」というものではなかったか。
そうした願いとは裏腹に、テレビの番組は技術進歩と共に進み、携帯電話の小さな液晶画面で好きなときに好きな場面だけを見るのもそう遠い話ではなくなってきました。
そして、番組を送り出す側もそれに合わせるように、「カテゴリーも意味も抹殺して、ひたすら経済的消費財の道を突き進んでいく」(佐怒賀三夫)ことになるのかもしれません。
新年になって山手線に乗っていたら、隣に立っていた中年女性の二人連れが年末年始番組の話をしていました。で、聞くともなく聞いていると、一人の女性が「紅白? 見なかったわよ。9時からは、たけしの番組見ちゃった」というようなことを話していました。
何と、視聴率が限りなく低いと思われたテレビ朝日の「ビートたけし(1947~)の世界はこうしてダマされた!?超常現象(秘)ファイル 衝撃のスクープ連発!!」を見た人がこんな「おばさん層」(「asahi.com:おばさん30歳、おじさんは40歳から 新成人調査」)にもいたとは。
しかし惜しいかな、映画監督の名前を間違っていました。「スピルバーグ(1946~)じゃなくて、キューブリック(1928~1999)ですよ~」。でも、電車の中で話の“オチ”までしゃべっちゃうのはまずいんでない?
「紅白」に話を戻すと、大トリでスマップが歌った「世界に一つだけの花」というのが、「紅白」を機会にまた売り上げを伸ばしているということですが、ここにも、非営利団体のはずのNHKのいらやしさが見え隠れする気がします。
こんなことをムキになって書くのもどうかとは思いますが、第一、スマップというのは、日本という甘えた音楽環境であるからこそ存在できるグループなのではないでしょうか。
結局のところ、石原裕次郎(1934~1987)らから連綿(れんめん:長くひきつづいて絶えないさま。連々=広辞苑)と続く、時代のアイドル的なスターにレコードを吹き込ませ、さらなる知名度を上げるという商売上の戦略でしかなく、それに営利無目的であるはずのNHKが手を貸したことになります。
NHKはおよそ公共放送局らしくない裏工作をしているはずで、スマップが所属するジャニーズ事務所とも相互利益のために結託しているはずです。
でなかったら、「紅白」でのスマップの大トリや新大河ドラマでの主役にスマップのメンバーの香取慎吾(1977~)を起用されたことなどの説明がつきません。こんなことが許されてもいいものでしょうか。
いまさらいうまでもなく、NHKの運営は一般国民からの受信料によって成り立っています。いってみれば準公務員的な立場にあり、国民から監視されるべき対象です。本来であれば、報道番組や教育番組、ドキュメンタリー番組のみを放送していてもいいはずです。
であるのに、近年は年ごとに度合いを越え、「おちゃらけた番組」があまりにも目につきすぎます。これはよく聞かれる批判ですが、最近はNHKの番組コマーシャルが異常なほどの多さです。
年末も、「紅白」の司会者の局アナ、小野文恵(1968~)がウェートレスの格好をして画面に登場してきました。信じられますか? こんなこと!
ご本人はれっきとしたニュース番組でニュース原稿も読んでいるわけで、ジャーナリストという自覚はお持ちではないのでしょうか。
たとえばの話、欧米のニュースキャスターにウェイトレスの格好をさせることなどできるでしょうか。第一、本人にジャーナリストの自覚があれば、いくら上からの命令であっても、「紅白」の司会はおろか、ウェイトレスに扮しての下らないPR番組への拒否ぐらいしてもよさそうです。
これでは、いくら真面目な顔をしてニュース原稿を読まれても、一方でウェイトレスのときの扮装が思い出され、一番大切な、ニュースの信憑性にさえ影響を与えそうです。
結局は、目立つことが第一で、アナウンサーはそのための手段でしかないのでしょうか? ついでまでに、あなた方の給料は国民の財布から出ているということをお忘れなく。
とにもかくにも、年末年始は「紅白」や新しく始まる大河ドラマ「新撰組!」(2004)の番組コマーシャルを飽き飽きするほど見せられました。
あれだけの時間を使ったら、良質なドキュメンタリー番組をどれほど放送できたでしょうか。NHKさん、お願いですから制作費を有効に使ってください。