世間を賑わす事件や事故が起こると、必ずといっていいほど、争点をぼやかす方向へマスメディアが誘導します。
私が思い出すのは、2005年4月25日に起きたJR福知山線脱線事故です。本事故の原因を、今では多くの人が、JR西日本の悪しき体質が引き起こしたと考えてはいませんか?
私は当初から、マスメディアによる誘導に不満を持っていました。
どの会社でもそれなりに問題を指摘することはできるでしょう。JR西日本にそれがなかったとはいいません。しかし、それが直接的な原因となって事故が起きたとは私は考えていません。
鉄道事故の原因のほとんどは、事故を起こした車両を運転した運転士です。それは福知山線脱線事故でも同じでしょう。
事故直後の報道を思い出すと、事故車両を運転していた運転士は、事故を起こす直前の伊丹駅で、停車位置を72mも超過するオーバーランを起こしています。
このオーバーランまでも、JR西日本の管理体制が原因したと考えますか? これは、事故車両の運転士の不注意か、運転ミスです。
運転士は同車両の車掌に頼み、指令所への申告を9mにしてもらっています。
おそらくはこの時点で、事故車両の運転士は平静さを失っていたでしょう。その後、遅れを取り戻すために速度を上げ、その挙句に、稀に見る脱線事故を起こしています。
どんな会社でも、社員のミスには甘くありません。それが社員を委縮させる面もあります。しかし、本事故の場合は、まず責められるのは事故を起こした運転士本人なのではありませんか?
JR西日本の同じ管理化に置かれたほかの運転士が同様の事故を起こしているかといえば起こしていません。同じ条件の中であれだけの事故を起こしたということは、運転士が、運転業務に不適格だった面がなくもありません。
ところが、私が知る限り、本事故のあと、運転士の責任を問う報道は見かけませんでした。その代わりとして、事故を起こした運転士が所属したJR西日本の責任ばかりが問われました。
今、世間を賑わすのは漫画家の自殺です。漫画家の芦原妃名子(1974~2024)は、まだ連載の途中だった彼女の漫画『セクシー田中さん』が日本テレビでテレビドラマ化されたことで起きた問題で心身をすり減らし、その結果的として、死を選びました。
芦原の死により、改めて、原作がある小説や漫画のテレビドラマ化に悪い意味で注目が集まっています。それによって多数の反応が起き、注目が薄まることがありません。
本来であれば、これを契機に、原作の扱い方を巡る問題などをマスメディアが積極的に取り上げるべきです。しかし、逆の動きを見せています。
マスメディアの多くは未だに芦原の死を自殺とは報じていません。彼女の死をショッキングなものにしたくない現れです。
アイデアに枯渇するテレビ局は、今後もドラマの制作を原作に頼るしかないため、この問題への注目が薄れてくれるのを望んでいるのです。
そしてそれがなかなか敵わないとなれば、「別の手」に打って出ます。「別の手」でよく使われるのが「争点ずらし」です。
Yahoo!ニュースに次の記事が載りました。朝日新聞のAERA dot.が配信した記事です。
これが典型的な「争点ずらし」です。
鴻上尚史(1958~)は一見もっともらしいことをいっています。しかし、彼がいうことは「一般論」です。
誰かが一般論を持ち出した時は、個別の問題から目を逸らさせるのが目的です。この場合も、芦原の自殺の現実を薄めようという魂胆が私には見えます。
誰が一般論で自分の命を絶ちますか? 芦原は個人の悩みに苦しめられ、今後ある自分の人生を、自分の手で断ち切ったのです。それは、一般論などであろうはずがありません。
今問題にすべきなのは、漫画家、芦原妃名子に起きた悲劇です。
それをつぶさに見ることをやめ、「漫画家というのは、出版社とテレビ局に挟まれて、つらい立場にあるのだよ」という一般論で結論付けられたら、芦原の死はどうなるのですか?
鴻上がいうようなことが現実にはあるでしょう。しかし、個々にはさまざまな状況があるでしょう。その個々の問題を注意深く見ていくことで、問題の本質は明らかになるのです。
個々の殺人事件を扱うとき、一般論を持ち出したら裁判にもなりません。事件は様々な理由で起きます。それを、「人殺しはよくない」の一般論で論じていたらどうなりますか?
これに近いことを鴻上が述べているように私には思われます。
漏れ聞くところでは、芦原の漫画を脚色した脚本家は、原作を無視して、自分が書きたいようなドラマにしてしまうなど、以前から問題がある人ということらしいです。
その脚本家が、芦原が慣れない脚本を書くことになり、その出来に不満を持ち、それをSNSで公にしています。芦原はそれによって、二重の意味で心に深い痛手を受け、最悪の選択をしてしまった可能性があります。
これは一般論ではなく、人間と人間の心の戦いのようなものです。これを一般論で片付けてはいけません。
芦原は家を出て、死まで、彷徨っています。そのときの芦原の気持ちを思うと、堪らない気持ちになります。
人が自分の命を自分で断とうというときの気持ちを想像したことがありますか?
これを、出版社とテレビ局に挟まれた原作者がつらいものだよ、と簡単に割り切ってしまっていいはずがありません。
鴻上の記事は、鴻上の次のいい方で締めくくっています。
今回の問題は「原作者と脚本家」の問題ではなく、「出版社とテレビ局」の問題だという認識が広まってほしいです。それだけでも大きな変化だと思っています。
これは、鴻上の争点ずらしであると私は考えます。鴻上自身というより、マスメディアの狙いを鴻上が代弁しているだけでしょう。
鴻上には続けて、争点ずらしに協力するいわゆる識者が置かれた立場について「論じて」いただければと思います。一般論ではなく、ご自身が経験した個別の事例として_。
下の記事も完全な争点ずらしです。
こんなことをしているから、マスメディアを誰も相手にしなくなるのですよ。そんなこともわからないのですかぁ?
自分で火をつけて、関係ない人を放火犯にしているようなものです。