日本にはまだまだ知られていない歴史や名所があります。
私は、毎週土曜日の早朝にNHK BSプレミアムで放送される「よみがえる新日本紀行」を録画して見る習慣を持ちます。
本番組は、ビデオカメラでの取材が始まるまで、フィルムのカメラで撮影された紀行ドキュメント番組の「新日本紀行」を、修復などを加えて現代によみがえらせる番組です。
先月23日は「水のわたる橋 熊本県矢部町」が放送されました。この番組が初回に放送されたのは昭和49(1974)年です。
番組で描かれているのは、阿蘇山の南外輪山の裾野に広がる農村です。その辺りを今の地図で見ると、川の流れが幾筋もあり、水には不自由しないように思えます。
ところが、熊本県矢部町(現在は山都町)の白糸大地は、飲み水にも困るほど水に乏しい寒村だったそうです。そのため、農民はわずかな湧き水などを工面して、農作業をせざるを得なかったそうです。
地図を見ただけではわかりませんが、番組を見ると、白糸大地の周囲は深い谷になっており、流れる川は、谷の底を流れています。
大地に暮らさざるを得ない農民は、谷を流れる水音を聞いては、恨めしく思ったということです。
村で総庄屋の地位にあった布田保之助(1801~1873)は、村の開発に人生を捧げた人物ですが、最後の大仕事として、村に水を引くため、水路橋の建設に立ち上がります。
石工の棟梁をしていた橋本勘五郎(1822~1897)に橋の建設を委ね、嘉永7(1854)年に完成したのが「通潤橋」です。
橋は石を組んで作った、長さ75メートル、高さ22メートルのアーチ形の橋です。これが実に精工に造られており、年月を経ても狂いを生じないため、専門家をうならせる出来栄えだそうです。
橋本はその腕を買われ、その後、東京で万世橋や江戸橋、皇居の二重橋の建設などを請け負ったそうです。
隣の大地を流れてきた水を、8メートル下に造った通潤橋を通し、流れの勢いで6メートル吹きあがり、白糸大地の農業用水路に水を送る仕組みとなっています。
その用水路の長さは40キロにもわたると番組のナレーションで紹介されています。
この水路のお陰で農地が拡大に広がり、農民は布田を神様のように崇め、布田神社ができました。
放送当時、秋の八朔祭があると、そのクライマックスで、年に一度だけ、橋の中ほどにある栓を開け、下を流れる川の上流側と下流側に勇壮な放水をします。
この橋は、まさに今年の9月25日、土木建造物としては全国で初めての国宝にしていされました。そうであれば、そのニュースは知らないはずがありませんが、私は、数日前に、録画してあった番組を再生させるまで、このような橋と橋にまつわる歴史があったことを初めて知りました。
国内の知られざる歴史や名所が、多くの人に知られるのを待っています。