山口瞳(1926~1995)が足掛け32年間、一度も穴を開けることなく「週刊新潮」に連載した「男性自身」の電子書籍版全集1を、空き時間に読んでいます。
山口は、そのときどきに気になったことや思いついたことを書くため、それが書かれた時代背景が反映されていることも含めて、面白く読むことができます。
1964年11月16日号では「吃音」(吃音症)について書いています。
その冒頭部分を読み、意外に感じました。次のようにあったからです。
私と弟の一人と妹の一人が吃りである。
山口瞳. 山口瞳 電子全集1 『男性自身I 1963~1967年』 (p.298). 株式会社小学館. Kindle 版.
私は生前の山口はよく知りませんが、山口が吃音であったとは初めて知りました。
それでも、山口の場合は、本人はそれほど気にしておらず、何かをしゃべってテープレコーダーに録音した時、自分に軽度の吃音があるのを認識する程度であったようです。
吃音ということでいえば、2000年5月に亡くなった父がそうでした。普段は特別そういうことを感じませんでしたが、人前で話すときは、それが酷くなる傾向がありました。
私は父が40歳のときの子供です。母は37歳でした。
母は私が子供の頃から病気がちで、入退院を繰り返していました。眼病を患い、私が小学生の頃に、片方の眼を摘出し、義眼を入れる手術を受けました。
東京都心の病院へ通院することがあり、その病院へ行くついでに、両親と私の三人で、東京タワーへ上った思い出があります。
降りてくるときは、外階段で地上まで下りました。小学校の低学年だった私は、先に降りては、また父母のところへ駆けあがり、また下に下るようなことを繰り返しました。
その後、私が中学の途中で、母の残っていた眼が完全に視力を失い、全盲となりました。それが、私の八歳上の姉の結婚話が決まりかける頃で、母は娘の結婚相手の顔を見ることができないのを残念がっていました。
母が全盲になってしまったこともあり、中学校の行事で親が学校へ来るときは父が来ました。それと、父が40歳のときに私が生まれたことで、他の親に比べて年齢が高いこともあったのか、私が中学三年のときにPTA会長になりました。
学校で行事があると父がPTA会長として出席し、生徒を前にして挨拶をしました。そのたびに必ず吃音が起きるため、生徒たちの間に笑いが起きました。
私は恥ずかしいので、下を向いて、早く挨拶が終わることを願っていました。
不思議に感じたのは、父はそのことをまったく苦に感じていなかったことです。私が父の立場であれば、そのことについて、自分の子供に、言い訳めいた話をしたでしょう。
しかし、父は一度もそんな素振りを見せませんでした。挨拶を苦にして愚痴をこぼしたこともありません。自分がやるべきことを当たり前のようにやっていただけです。
吃音があることで有名だった人に、「裸の大将」と親しまれた山下清(1922~1971)がいます。彼を描いた映画『裸の大将』(1958)では、小林桂樹(1923~2010)が山下を演じました。
その作品がリバイバル上映されたとき、小林が会場で、撮影時の思い出話を披露してくれました。
吃音のある山下の役をしばらく続けた小林は、役を離れても吃音が起きることが続き、困ったということです。
山口は、米国や英国にも吃音者がいるといい、アルフレッド・ヒッチコック(1899~1980)の作品にもよく出演したジェームズ・ステュアート(1908~1997)についても「そういう感じがする」と書いたのは意外でした。
これまで、ステュアートの演技は繰り返し見ていますが、彼に吃音の傾向があることはまったく気がつきませんでした。
山口は自分にその傾向があるからか、吃音を悪くばかりは考えず、次のように書いていたりします。
英国では吃らないと紳士になれないそうだ。オックスフォード流というの だそうだ が、語そのものを吃り加減にしゃべらないといけないらしい。
英語でも求愛のときは吃りながらのほうがいいようだ。
山口瞳. 山口瞳 電子全集1 『男性自身I 1963~1967年』 (p.301). 株式会社小学館. Kindle 版.
今は、自撮りのVloggerらが、ネットの動画共有サイトYouTubeで、独り語りの動画を配信しています。その一部を見ていますが、それらの人の中に、吃音の人は、今のところ見かけません。
もっとも、その傾向を持つ人は、はじめからそんなことを始めないから(?)かもしれません。
私は自撮り動画を撮ったことはありませんが、音声だけの独り語りであれば、本コーナーで以前続けたことがあります。
私はうまくしゃべろうという気がなく、しゃべり方がうまくなろうとも考えてもいません。実際、私のしゃべりはいつまでたっても、うまくないままです。
しかし、私はそれでいいと考えています。むしろ、たどたどしかったり、次の言葉がなかなか出てこないようなしゃべり方を好ましく考えています。
それとは逆に、世の中には、立て板に水とばかりに、スムーズな話し方をする人がいます。それが上手なしゃべり方(?)でしょうが、聴く人には、逆効果であると私は考えます。
時間を節約して、2倍速で動画を再生させ、それで聴き取れる人であれば、速いほど効果的でしょう。しかし、じっくりと話を聴きたい人もいます。
そんな人には、つっかえたり、言葉が淀んだりする話し方の方が、あとあとまで話の内容が頭に残るように考えます。
吃音がある人の話は、聴く方が注意を向けることになり、結果的に、話を受け取りやすくなるともいえるからです。
私は昔から電話が好きではありません。それもあって、私は携帯電話を持ったことがありません。固定電話はありますが、めったに使うことがないです。
私が電話を避ける理由に、話し出すときに言葉がつっかえそうになる「恐れ」のようなものがあります。今では、昔に比べ、「恐れ」は薄れる傾向にあります。
若い世代はスマートフォンが必需品となっていますが、それを「電話」として利用することが少ないと聞きます。その深層心理に、もしかしたら、話すことを躊躇う人が一定数いるから、というのは深読みすぎるでしょうか。
男性に比べて、女性の吃音者は少ないのでは、と考えています。女性の有名人でそれに該当する人をすぐに思い出せません。
それが事実に近いとして、その原因が何にあるか、私にはわかりません。
NHK BSプレミアムで、昔に製作されたテレビドラマ『男たちの旅路』の第一部から第三部まで放送され、すべて録画して楽しみました。
それを見て、警備会社の警備員・杉本陽平を演じた水谷豊(1952~)の演技に魅了されました。本日分に関連付けて書けば、水谷に吃音者の役を演じて欲しいと思います。
その場合、ドラマ『相棒』(私はこのドラマは一度も見ようと思ったことがく、見ていません)で演じているような感じではなく、生き生き演じていた昔のように、ワイルドな感じの役柄が望ましいです。
水谷であれば、吃音者を演じ切るでしょう。撮影が終わってからも、吃音の癖が抜けなくなる恐れが無きにしも非ず、ではありますが。