本コーナーの前回の更新で、話のついでに、アルフレッド・ヒッチコック(1899~1980)が監督した『見知らぬ乗客』(1951)に触れました。
どんな作品でも、印象的なシーンがあります。そして、それが本筋から離れたことであれば、自分にとっての印象深い場面になります。『見知らぬ乗客』にもそんな場面があったことを思い出しました。
作品の中頃、モートン上院議員の家の応接間で、集まりが催されます。その上院議員を演じるのが、前回の更新で書いたように、レオ・G・キャロル(1892~1972)という俳優です。
前回は『花嫁の父』(1950)について書きました。その作品で、キャロルは結婚披露宴を取り仕切る業者の責任者を演じました。
モートン上院議員の娘と恋仲になっているのが、本作で交換殺人を持ち掛けられ、心理的に追い詰められるガイという青年です。そのガイを交換殺人の相手に誘うのがブルーノという金持ちの家の独身男です。
ブルーノは父親に能力を否定されています。それが彼の作り話でなければ、ガイに自分で話したように、大学へは3回通ったが、3回とも途中でやめています。
ブルーノに能力があるとすれば、良くも悪くも、話術が達者であることです。初めて会った人であっても、その話術で相手を自分の世界へ引きずり込むことができます。
このブルーノが正装して、ガイと恋仲にある女性の父であるモートン上院議員の集まりに現れます。どんな状況でも物おじしない彼は、すぐにその場に溶け込み、カクテルグラスを片手に持ち、ひとりの判事に話しかけます。
「死刑判決を下した日に、いつものように食事を楽しめますか?」と。
私が印象に残ったのは、その判事のすぐ近くのソファに座っていた中年の婦人です。のちに、彼女はカニンガム夫人だとわかります。ですので、ここから先、彼女のことはカニンガム夫人と書きます。
ヒッチコック監督は、本作のカニンガム夫人のように、脇役に同じような役どころの女優を配するのが好みであるように思われます。
それにも、被害者の男性の父親の義姉として、同じような女優が登場します。私は同じ女優が演じたのかと思ったりしましたが、別の女優でした。
本作でカニンガム夫人を演じたのが誰なのか、ネットの事典ウィキペディアではわからなかったので、調べてみました。それはノーマ・ヴァーデン(1898~1989)という女優です。『ロープ』に出演した女優はコンスタンス・コリア―でした。
本作で、ブルーノと判事の会話を聴いていたカニンガム夫人の方から、ブルーノに「殺人にいたく興味がおありのようね」と声をかけます。
カニンガム夫人は終始微笑みを浮かべています。
ブルーノは「いいカモがいた」と心の中で思ったか、今度は話し相手をカニンガム夫人に換え、殺人に興味を持ちのようねの答えとして、「普通ですよ。あなたと同様です」と愛想よく答えます。
逆に殺人に興味があるようにいわれたカニンガム夫人は、「私は(殺人になんて)興味ありませんわ」といって笑います。
ブルーノは「皆さん、おありになるはずですよ」といって、夫人の隣りに座ります。会話が進んでからは、向かい合うように座ります。座る位置を換えるのも、互いが親密になったように相手に錯覚させる、この手の男が使うテクニックのひとつでしょう。
ブルーノは、夫人を自分のペースに持ち込めたと確信し、「人には邪魔な人間がいるものですよ。誰かを殺したいと思ったことはあるでしょ? たとえば、ご主人とか」といって、夫人を意地悪そうに見ます。
夫人は、「おー、ほほ」と一応驚いたような顔を作り、笑いながら「とんでもない」といいます。
この場面はまだ続きますが、何度繰り返して見ても楽しめます。
本作の原作を書いたのは、米国の女性作家、パトリシア・ハイスミス(1921~1995)です。ハイスミスは、これも映画化された『太陽がいっぱい』(1960)の原作を書いたことでも知られます。
『太陽がいっぱい』でアラン・ドロン(1935~)が演じたトムも、出会う相手を自分のペースに持ち込むのが得意な男でした。
ブルーノに対するカニンガム夫人の演技が達者だったため、演出するヒッチコック監督としても楽しめた(?)かもしれません。
この場面は、ブルーノがカニンガム夫人に殺人の手本を披露するつもりが、失神をして終わります。なぜ彼が失神したのかは、本作をご覧になって確認してください。
ともあれ、印象深い場面があれば、愉しみが広がります。