昨日、また、ある映画を見ました。アルフレッド・ヒッチコック(1899~1980)が監督した『ロープ』(1948)という作品です。「また」と書いたように、私は本作を何度も見ています。何度見たかの正確な数字はわかりませんが、少なくとも5、6回は見ているだろうと思います。
昨日だけで2回見ました。
NHK BSプレミアムには、平日の午後1時から内外の映画を放送する番組「シネマ」があります。私はその放送枠は必ずチェックし、興味がある映画が放送されることを知ると、とりあえず録画します。
米国映画の主な作品はほぼ録画してあり、ブルーレイディスク(BD)に保存してあります。ただ、ちょっと見返すのには、レコーダーのハードディスクドライヴ(HDD)に録画し、また見そうなものだけ残し、そうでないものは消します。
ヒッチコックの『ロープ』もBDに保存してありますが、上に書いた理由でレコーダーのHDDに保存してあります。本作は期間を開けて何度も放送され、それがいつだったかわかりませんが、前回放送したときにHDDに録画し、残したままにしてあります。
そうでした。前回放送されたあと、本コーナーで本作を取り上げています。
その回の更新を確認しました。更新したのは今年の6月21日で、今年の2月10日に放送した分を見返して文章にまとめたのでした。そのことを確認したことで、本作がおよそ10カ月ぶりに放送されたことがわかりました。
ともあれ、昨日の午後1時から放送されることを知っていたため、放送前の昨日の午前中、録画してあったのを再生して一足早く見ました。そして、午後1時からはオンタイムではじめから終わりまで見ました。短い間に2回見たことになります。
これが3時間を超えるような大作であれば、どんな名作でも2回続けて見るのは億劫です。その点、本作の上映時間は80分です。この短さが、私に上記のような行動を採らせた理由となります。
ついでですが、『ロープ』の上映時間が短かったため、昨日の「シネマ」の枠では、『ロープ』に続けてもう一作品、『吾輩はカモである』(1933)という古い白黒作品が放送されています。こちらの作品は68分です。
ヒッチコック監督が『ロープ』を撮ったのは1948年。日本の年号でいえば昭和23年で、先の大戦からまだ3年しか経っていない年です。多くの地方が焼け野原となった日本は、ようやく戦後の復興が始まった頃でしょうか。
本作は米国のニューヨークが舞台となっていますが、戦争の影は微塵もありません。
ネットの事典ウィキペディアの記述を見ますと、本作は、ヒッチコックが初めて採用したカラーの作品になるそうです。
本作でなんといっても特徴的なのは、1台のカメラではじめから終わりまで1カットで撮影したように見せていることです。
作品の総時間が80分と短いですが、それであっても、80分連続で撮影できるカメラはありません。
同じ試みをした作品を見たことがあります。ロシアのエルミタージュ美術館に展示されている膨大な絵画作品などを紹介しながら1カットで撮影したように見せる『エルミタージュの幻想』(2002)です。こちらの作品もどのように撮影されたかわかりませんが、フィルムでなく、デジタルで撮影されたのかもしれません。
ヒッチコックが『ロープ』を撮ったのは1948年ですから、デジタルのデの字もない時代です。ですから、1カットで撮影されたように見せる工夫がされています。
ストーリーは簡単にまとめておきます。舞台はニューヨークにあるアパート、日本風にいえば豪華なマンションです。
そのアパートの住人は、ブランドンとフィリップというふたりの大学生です。彼らは、ウィルソンという通いの家政婦を雇っています。このことからもわかるように、ふたりはお金には不自由しない家の息子です。
彼らのアパートは高層階にあり、応接間に広く空いた窓からは、ニューヨークの街並みが見えます。
アパートの部屋の間取りは次のようになっているものと思われます。
寝室 | キッチン | 玄関 | 応接間 |
部屋が一列に並んでおり、応接間が主要な舞台となります。
この部屋は、すでに書いたように、大きく窓をとってあります。部屋にはソファーが置かれ、部屋の隅にはピアノが置かれています。フィリップはプロのピアニストを目指しているようです。同じ部屋の、窓と反対側にチェストが置かれています。
日本ではなじみがないように思われるチェストという家具ですが、いってみれば収納箱のような用途に使われ、本作に出てくるチェストは、上部に蓋がついて、開け閉めできるようになっています。中は空洞で、大人が独り体をかがめれば入る大きさです。
ある日の午後、カーテンを閉め切った応接間で、ブランドンとフィリップは、デイヴィッドという同級生の首を絞めて殺害します。
本作のタイトルバックは、アパートの建物の一部と前の通りを見える俯瞰した位置から固定で撮影されています。車と人の通りは多くありません。車は1台か2台。人は、3組ぐらいが通り過ぎるだけです。「監督・アルフレッド・ヒッチコック」のタイトルが消えた直後、アパートの前の通りを、男女が歩いて通り過ぎます。
人物は小さく写っており、ただの通行人に見えます。が、頭部の毛が薄いところを見ますと、監督のヒッチコックです。ヒッチコックといえば、自作に必ず自分の登場場面を作ることで知られています。
次のカットは彼らが暮らすアパートの応接間の窓が外から写します。窓にはカーテンが引かれています。その部屋の中から男性の苦し気な声が響きます。首を絞められたデイヴィッドの声です。
画面が応接間に切り替わると、あとは演技が終わるまで、1台のカメラによる1カット風の描写が75分近く続きます。
デイヴィッドの死を確認した主犯格のブランドンは、フィリップの手を借りて、遺体をチェストの中に入れます。外が明るいうちは外へ遺体を運び出せないため、チェストに隠し、暗くなったらブランドンの車まで運び、湖の近くまで行って、湖底に沈める計画です。
ブランドンは大胆不敵な男です。フィリップは彼に従って犯罪に協力しています。もっとも、首をロープで絞める役はフィリップでした。
彼らは、デイヴィッドの死体を入れたチェストが置かれた応接間で、犯罪のすぐあと、パーティーを催します。招待客は、デイヴィッドの両親(母親は風邪を引いたため、代わりに母の姉が来ます)とデイヴィッドの今の恋人(その前はケネス、その前はブランドンの恋人)、そして、彼らが私立の中学校に通っていたときの恩師・カデルです。
カデルを演じるのは、ヒッチコック作品のにはおなじみのジェームズ・スチュアート(1908~1997)です。
殺しの場面から1台のカメラがふたりを追うようにずっと撮影を続けます。普通の映画であれば、その間に、何度もカットされ、ふたりが台詞をいうときは、その役者だけを大写しにしたりするところです。
カメラが切り替わらないことに気がついた私は、どこで切り替わるのだろうと観察していました。室内で1回目のカットは、私の記憶違いでなければ、買い物から帰った家政婦のウィルソンが応接間の入り口に立った場面です。
彼らの恩師のカデルは一番最後にやって来ますが、カデルが応接間に入る場面でもカットがあり、カデルをひとりだけ写し、そのあとは彼の動きに合わせて室内をカメラが移動しています。
1カットの撮影に見せながら撮影をカットしたのは、応接間の広い窓から見える街の風景を照らす光が、時間と共に変化するからです。はじめは日中の光で、次第に夕暮れに近づき、最後は夜になって、街にはネオンが光っています。
私は最後まで、それがセットで撮影されたのか、それとも、実際にあるアパートで撮影されたのかわかりませんでした。ただ、窓から見えるのが実景であれば、自然の天候はくるくる変わり、前後のつながりが悪くなります。
デジタルで処理できる現代であれば合成技術でどうにでもなりますが、当時はどのように処理したのでしょう。本作の背景がセットであれば、かなりよく作られています。近くに見える煙突からは煙が出たりしています。
カメラワークは見事です。おそらくはズームレンズでの撮影です。移動しながら焦点距離を変え、ベストの画角で俳優の演技などをフレームに収めています。
個人的な話になりますが、私はネットの動画共有サイトのYouTubeに54本ほどの動画を上げ、自分のチャンネルで紹介しています。
私は子供の頃から動画に興味を持つからです。昔は、個人が唯一扱えたムービーフィルムの8ミリ映画を趣味にしていました。
8ミリフィルムはカートリッジに入っていますが、シングル8とスーパー8と規格は違えど、どちらも1本のカートリッジで撮影できるフィルム量は決まっていました。カートリッジに巻かれているムービーフィルムの長さは50フィート(15.25メートル)です。
このカートリッジをカメラにセットし、8ミリ映画の標準速度である18コマ/秒で撮影した場合、撮影できる時間は3分20秒です。その設定で撮影する限り、どんなに長回ししたくても、できる時間は3分20秒間だけです。
今はデジタルカメラで動画が撮影できます。それを使えば、記録メディアに収まる分の連続撮影が可能です。それに比べた3分20秒はとてつもなく短く感じるでしょう。
しかし、8ミリ映画で遊んでいた頃は、1カット5秒ぐらいしか撮影しなかったため、3分20秒分撮影するのに骨が折れたものです。
8ミリ映画を経験した反動ということもないのでしょうが、時間制限のないビデオで撮影するようになってからは、できるだけ長回しする傾向を私は持ちます。
YouTubeで紹介する私の動画でも、多くが長回しで、東京の地下鉄・木場(きば)駅付近から東京都現代美術館までを歩きながらビデオテープを廻しっぱなしで撮影した動画もあります。
このように、デジタル動画の多くに1カットが長い動画が多いため、動画編集ソフトを使っていますが、編集らしい編集が必要でありません。切ったりつないだりが、私の場合は極めて少ないからです。
本作で印象的なカットがあります。それは終盤近くで、パーティーが終わったあとの場面です。
招待客があらかた帰り、残っているのは恩師のカデルだけです。
友人の遺体を入れたチェストは、パーティーの間はもてなしのごちそうを一時的に置く台替わりに使っています。家政婦のウィルソンはそれに不満ですが、雇い主の彼らの指示には従わざるを得ません。
パーティーが終わったあと、カメラは応接間から奥のキッチンまで見通せるアングルに固定されます。一番手前で、料理置きに使われた死体の入ったチェストをなめています。画面の右隅にカデルの体の一部が入り、ブランドンとフィリップふたりと話す声だけが聞こえます。
画面の中で動いているのは家政婦のウィルソンだけで、あとかたづけのために応接間とキッチンの間を往復しています。料理の皿を片し終えたウィルソンは、チェストの上を覆っていた布切れを取り、上部のふたを開けようとします。
チェストにはいつもは書物の収納に使っているようです。ウィルソンは、チェストの中に、取り出したままになっている書物を収納しようとしたのです。
すると、ブランドンが慌ててウィンストンの手を止め、上部の蓋を開けさせません。もちろんそうでしょう。開けてしまったら、中に押し込んだデイヴィッドの遺体が恩師のカデルと家政婦のウィルソンの目に晒されてしまうのですから。
もっとも、カデルとウィルソンは、ブランドンとフィリップの挙動に不審を持っています。特にカデルは、他人からは変わり者に思われている独特な考えを持つ人物で、カデルをパーティーに招待したことを、フィリップはブランドンに不満を持っていたのです。
本作がどのような結末を迎えるかは、あなたの眼で確認してみてください。