ある程度の年齢の映画ファンや、若い人であっても古い映画が好きであれば、『太陽がいっぱい』(1960)という作品があることを知っているでしょう。
私も映画は見ている方だと自分では考えています。どういうわけか、西部劇を見る習慣がないため、その分野の映画には疎いですが、それ以外であれば、知られている作品の多くを見ていると思います。
『太陽がいっぱい』も、過去に、NHK BSプレミアムで何度も放送されていますので、それなりに見ています。
ただ、きっちりと見ることを怠って来ましたので、アラン・ドロン(1935~)がモーリス・ロネ(1927~1983)が扮した金持ちの男を殺し、その男に成りすます話、ぐらいの認識しか持っていませんでした。
この作品が、先月の26日にNHK BSプレミアムで放送になりましたので、録画して、きっちりと見ることをしました。
原作は、米国の女性作家、パトリシア・ハイスミス(1921~1995)が書いた“The Talented Mr. Ripley“(1955)です。
“Ripley”というのは、アラン・ドロンが演じたトム・リプリー(トム)の名で、ハイスミスは、リプリーを主人公にしたシリーズ物を書いた、とネットの事典ウィキペディアにありますね。知りませんでした。
私も原作を読んだことはありませんが、それを映画化した『太陽がいっぱい』だけを見ると、トムと、モーリス・ロネが演じるフィリップ・グリーンリーフの関係がよくわからないまま見てしまいがち(?)です。
原作について書いたウィキペディアで確認すると、フィリップもトムも米国人です。フィリップは海運王の不義の息子です。
トムはニューヨークに暮らしている男で、信用詐欺を繰り返して暮らすいい加減な男です。
遊んでいるだけで、家業を継ごうとしないフィリップを米国に連れ戻してくれるよう、フィリップの父親がトムに頼み、フィリップが遊び惚けているイタリアへトムがやって来る、といった舞台設定です。
それを知らずに本作を見始めると、トムとフィリップは歳の近い遊び仲間にしか見えません(?)。ふたりがいるのもイタリアで、トムを演じるのがフランス人のドロンですから、フィリップとトムの国籍があいまいになってしまう(?)かもしれません。
本作のトムは、フィリップを米国へ連れ戻す素振りをほとんど見せません。それだから、原作で描かれたようなふたりの関係がよく見えません。
羽目を外すフィリップの使い走りのようなことをトムがしています。
そのふたりを見ながら、私は昔に日本で放送され、人気を博したあるテレビドラマを連想しました。萩原健一(1950~2019)と水谷豊(1952~)が共演した『傷だらけの天使』(1974~1975)です。
水谷が演じた乾亨(いぬい・あきら)は、萩原が演じた小暮修を「兄貴」と呼び、修の周りを子犬のようにじゃれ回っています。
そのふたりが、本作のフィリップとトムに重なるのです。
フィリップを演じたモーリス・ロネは、『死刑台のエレベーター』(1958)で、恋人の夫を殺したあと、エレベーターが故障して閉じ込められる男を演じています。
その作品が公開された2年後に本作が公開されています。
それを知っていて本作を見ていましたが、『死刑台_』とロネと本作のロネでは感じがだいぶ違います。『死刑台_』の彼は、もっと精悍だった印象です。
ま、本作のロネは、遊び惚ける馬鹿息子を演じているため、だらしなく見えるのでしょう。
フィリップにはマージュという恋人がいますが、なかなか魅力的な女優です。それが誰か知らなかったので調べると、マリー・ラフォレ(1939~2019)という人ですね。
愛想笑いをしない、意思の強そうな女性に描かれています。
フィリップが遊び人であれば、マージュとの濃厚なラブシーンを描きそうなものですが、本作にはそういうシーンはありません。
本作を監督したのはルネ・クレマン(1913~1996)です。監督した作品を確認すると、コメディから反戦映画まで、守備範囲が広いです。
あの、『禁じられた遊び』(1952)もクレマンの作品になります。
本作のクレマンは、俳優の演技を必要以上に縛らなかった(?)のでしょうか。
トムがフィリップを殺したあと、フィリップの恋人のマージュを演じるラフォレに会うシーンがあります。
ふたりが話す様子をカメラが交互に写しますが、ラフォレがある台詞をいう途中、舌をわずかに覗かせます。それが、私は、愛らしいと感じました。
本作を見ていて私が面白いと感じるのは、フィリップを殺したトムが、有り余るほどの金を持つフィリップに成りすますため、工作をするシーンです。
貧乏暮らしをする男が上流階級の男に成りすます役を、ドロンは『地下室のメロディー』(1963)でも演じています。その作品は、本作の3年後に公開されていますね。
『地下室_』では、ジャン・ギャバン(1904~1976)が演じる刑務所から出てきた男に雇われて、ギャバンが演じる男とふたり(ドロンの役の兄も犯罪行為に巻き込まれます)で金庫破りをする若い男を演じています。
貧乏人の成年を上流階級の男に見せるため、「ホテルの部屋に入ったら、眺めのいい部屋だなどと喜ぶんじゃないぞ。勿体(もったい)ぶった態度を忘れず、必ずケチをつけるんだ。わかったな?」と教えたりします。
本作でトムを演じるドロンは、フィリップに成りすますため、パスポートを巧妙に偽造します。この情熱を別のものに使えば、まともに生きていけたでしょうに。
上流階級の人間は自筆で署名する機会が多い(?)ため、フィリップ・グリーンリーフのサインの練習をします。
上に埋め込んだ動画を見ていて、何かに気がつきませんでしたか? 私はあることに気がつきました。それは、このカットを撮影するカメラのフォーカスが、甘くなる瞬間があることです。
わかりにくいかもしれないので、同じカットから、トムを拡大してみました。
本作が公開されたのは1960年です。同じ年には、私が大好きな作品、ビリー・ワイルダー監督(1906~2002)の『アパートの鍵貸します』(1960)が公開されています。
『アパート_』が白黒作品ということもあるのか、本作が同じ年に公開された作品とは思えません。
『アパート_』が米国のハリウッドで定石に則った撮影方法で作られたのに対し、本作はヌーヴェルヴァーグの流を組むように、撮影方法も自由であるように感じます。
撮影監督はアンリ・ドカエ(1915~1987)ですね。すでに書いた『死刑台_』もドカエが撮影監督を務めていることがわかります。旧い作品には、ドカエの名前がよく登場します。
私が大好きな『シベールの日曜日』(1962)で撮影を担当したのもドカエではありませんか。
本作でトムが町の庶民的な市場をぶらぶらするシーンがありますが、正当な作り方であれば、あれほど長いシーンにはしないでしょう。
そのシーンが必要かといえば必ずしも必要ではなく、そのシーンが何かにつながるわけでもありません。
トムが市場の店先を、気の向くままに見て歩くだけです。
同じようなシーンが、『死刑台_』にもありました。『死刑台_』では、エレベーターに閉じ込められて、どこに消えてしまったように思える恋人を案じ、ジャンヌ・モロー(1928~2017)が演じるフロランスが、あてもなく街中を彷徨います。
このようなシーンが登場するのが、ヌーヴェルヴァーグの特徴といえましょうか。
脚本は監督のルネ・クレマンとポール・ジェゴフ(1922~1983)ですか。終わり方も見事でした。
恋人の死を知ったマージュは、悲鳴を響かせるだけで、その表情は一切に画面に登場させません。トムは、騙しとおせたと確信し、上機嫌です。そんなトムに迫る司直の手を予感させて幕が下ります。
全部が全部とはいえませんが、日本の映画製作者というのは、観客にわかりやすく描くのが親切だと考えがち(?)なところがあるように、私には見えます。
だから、本作のような作品の場合は、「最後はこうなりました」というところまで、きっちりと描きがちになります。
その点でいえば、小津安二郎監督(1903~1963)の作品は、観客に委ねる描き方をしているように思います。
ともあれ、本作を見ることで、余白を残すような表現を学んで欲しいと思います。こんなことを素人の私が書くのもなんですが。