私には、火曜日になると必ず録画するテレビ番組があります。毎週火曜日の午後6時10分から、NHK BSプレミアムで放送される過去に放送された「NHK特集」です。
私は昔からNHKのドキュメンタリー番組が好きで、アナログのビデオデッキを使っていた頃も、NHKのドキュメンタリー番組は録画対象の筆頭でした。
今もNHKではドキュメンタリー番組を放送しますが、今のドキュメンタリー番組はほとんど見ません。昔の番組と性格が大きく変わったように感じるからです。
先週の火曜日だった2月28日に放送された「NHK特集」は、「流氷が連れてきた動物たち 厳冬・知床の海」が放送されました。この番組が初めて放送されたのは1986年です。
およそ1970年代までのNHKのドキュメンタリー番組は、「新日本紀行」などのように、フィルムのシネマカメラで撮影されました。1980年代になると、カメラがビデオカメラに替わり、「NHK特集」もビデオで制作されています。
NHKの取材班が、流氷に覆われる北海道・知床周辺と、流氷の下の海を撮影しています。
知床という地名は、アイヌの人たちの言葉「シリエトク」が由来だと番組のナレーションで紹介されています。「大地の果てるところ」という意味だそうです。
知床周辺の地図を見ると、知床岬がオホーツク海に鋭く突き出しているのがわかります。
番組では、岬の先から40キロ南にあるという町が紹介されました。町の名前は羅臼(らうす)です。その町名を聞き、昔に起きたある事件を思い出しました。
「ひかりごけ事件」(1944)という事件が昔にありましたが、ご存知ですか? 私も、それを描いた熊井啓監督(1930~2007)の映画『ひかりごけ』(1992)を見なかったら、未だに知らずにいたことでしょう。
この事件では、日本の犯罪史上ほとんど聞かないか、それとも、それ以前に実際には起きていても、それが表に出なかっただけかもしれませんが、人の肉を食べる事件が起きています。
それが発覚したのは、先の大戦中の1944(昭和19)年ですが、事件の発端は前年の12月に起きています。
結果的に、人肉を食べて生き残ることになる男は、日本陸軍の徴用船の船長(兵役にはついていない民間人の立場)をして、乗務員7人を乗せた船を操っていました。
船は、船体修理のため、根室から小樽を目指していましたが、大時化に遭遇し、知床岬の沖合で座礁してしまいます。
船長の男は、命からがら岬に降り立ち、地元の漁師が作業や宿泊のために建てた番屋と呼ばれる小屋に入って生き延びようとします。
熊井監督の『ひかりごけ』では、番屋ではなく、海岸線の洞窟に潜る設定になっていました。その洞窟で、苔が緑色に光って見え、それが「ひかりごけ」の題名になっていた、と記憶しています。
番屋には、最年少で18歳の船員が吹雪の中を辿り着き、船長の男とふたりで、寒さと飢えをしのいだというように、ネットの事典ウィキペディアの記述にはあります。
映画では、船長の男を含め、4人の男たちが洞窟の中で過ごす様子が描かれていました。
船長と若い船員のふたりは、一カ月ほどはどうにか耐えますが、船員は衰弱して死亡します。空腹に耐えられなくなったのと、極限の状態にあったことで、精神が錯乱していた(?)のかもしれません。
船長は、一カ月ほど一緒に耐えていた船員の遺体を調理して、自分の胃袋に入れることが起きました。
船長をしていた男はその罪を問われます。船長は調べに対し、若い船員を殺してはいないといい、その一方で、若い船員の肉を食べたことは認めています。
人肉を食べたときの様子が、ウィキペディアの次のような記述で紹介されています。
横になっている○○(仮名)の屍を見ているうちどうしても我慢できなくなり、股のあたりを包丁でそいで味噌で煮て食べた。その時の味は『いまだ経験したことのないほどおいしかった』と述べました。また、鉞(まさかり)で頭部を割り、脳みそを食べた時が『もっとも精力がついたような気がした』と述べています」[4]。
ウィキペディア「ひかりごけ事件」:船長の心情
船が座礁した翌年の2月、生き延びた船長の男は、羅臼町にある漁師の家に辿り着き、一時は、大時化で座礁に遭いながら生き延びた「奇跡の神兵」ともてはやされたそうです。
その後生還の様子や男の言動などから、疑念が生じ、現場付近で人骨などが見つかったことで、罪を問われることになります。
人間が文明を持たない動物であれば、生き延びるために、他の動物の肉を食べるのは、生き物としては当たり前の行為に思えなくもありません。
知床付近は、現在はどうかわかりませんが、「NHK特集」の取材をした1986年当時は、世界有数のオオワシの越冬地だったそうです。
番組では、流氷に乗ってやって来る野生動物に見せられて、羅臼へ移住したひとりの若い写真家の石井英二氏を紹介しています。石井氏は、横浜の大学で建築の勉強をする学生時代に、羅臼周辺へ来ることがあったのでしょう。
そこで、野生動物を見て、その写真を撮るため、十年以上、羅臼に通うことを続け、その後、番組が撮影される年まで7年程度、羅臼に住んでいると紹介されました。
写真家になった石井氏が真っ先に魅せられたのがオオワシですが、初めて見た頃は、一本の木に6、7羽程度だったのだそうです。それがその後飛躍的に増え、1986年当時は、地球上の半分の数にあたる2000羽のオオワシが、冬の時期、知床周辺で越冬すると伝えています。
知床にオオワシがやって来るようになったのは、流氷が原因しています。
知床岬の下の海は、海抜が1000メートルもあるということです。その海に流氷が流れ着くと、スケトウダラが産卵のために大群で泳いでくるということです。
オオワシはそのスケトウダラを餌にするため、知床を目指すようになったのです。
オオワシはスケトウダラを掴まえると流氷の上へ運び、卵や内蔵など、自分たちが生き延びるために食べます。
オオワシが仲間のオオワシを食べるシーンはありませんでしたが、生き延びるために食べることと、船長をしていた男が、死んだ若い男の肉を削いで食べたり、頭を割って脳味噌を食べることとの間に、文明人の理性を除外したら、決定的な違いがないように思えなくもありません(?)。
地元の漁師は、産卵のためにやってくるスケトウダラを根こそぎ捕獲し、店に並んだスケトウダラを、人々は買って食べます。スケトウダラの側に倫理を持ち出されたりしたら、人間側には弁解の余地がなくはありませんか?
流氷が浮かぶ海に潜ると、奇妙な生き物がいます。それは、貝を持たないために「ハダカガイ」の名をつけられた貝です。
見た目はまったく貝には見えません。全長は3センチ程度で、透き通った体をしており、腹のあたりに、内蔵と思われる赤っぽい球状のものが見えます。
ハダカガイは、ヒレのようなものを始終動かしています。それが、手で泳ぐように見え、見飽きません。その姿から「海の妖精」といわれるのも頷けます。ハダカガイは一生泳ぎ続けるそうです。
番組の終盤は、流氷が岬を離れ、知床の海に春が近づく頃、取材班が岬の沖10キロほどで見つけたアザラシの母子の様子を伝えます。
取材班を乗せた船が、流氷の氷の上にいるアザラシの子供を見つけます。全身が産毛に覆われていることから、生まれて4、5日ではないかということです。
あたりに母親の姿が見えません。人間が乗った船が近づいたため、警戒して、子供を氷の上に残したまま、その下の海に潜って隠れているのでしょう。
そうとは知らず、子アザラシは母親を呼んでいます。お腹が空いて、母親の乳をもらいたいのでしょう。やむにやまれず、置いてけ堀にされた子アザラシが不憫に思えてなりません。
その様子をカメラが写し続けます。
それを見ていて、私はイライラする気持ちを抑えられなくなりました。撮影はもういいから、早くその場を去って、母親と子供を一緒にさせてやってくれ、と。
これが人間の母子だったら、こんなことはしないでしょう。
このあたりにも人間の身勝手さが感じられます。
取材する人間としては、めったに見ることができない、野生のアザラシの子育ての様子を撮影できるチャンスに巡り合えた、と粘って撮影を続けたのでしょう。
やがて、人間がいることにもかまっていられなくなったようで、母アザラシが下の海から現れ、母アザラシを盛んに呼ぶ子アザラシのもとに近寄りました。
そして、大きな体を氷の上に横にして、自分の子供に、好きなだけ乳を飲ませていました。
私の姉は、2000年の10月にこの世を去りました。その2年前の冬、北海道で流氷を見る旅行をしています。行ったのは、羅臼ではなく網走だったと記憶します。
もとは、気の合った友人たちと長野オリンピック(1998)を見に行くつもりが、宿がとれないことから、北海道へ旅行先を変えています。
気球にも乗って、空の高いところから流氷を見たと話していました。
素晴らしかったから、私にも一度流氷を見せてやりたいと話していましたが、その二年後に亡くなり、姉にも、北海道で見た流氷のある風景は強く印象に残ったでしょう。
37年前の番組に登場した写真家の石井氏は、取材に対して、野生動物に出会えることから、「一生、羅臼に住んでいても飽きないと思う」と答えていました。
石井氏は今も、羅臼で野生動物の写真を撮ることに夢中になっているのでしょうか。