レコーダーに録画したままになっていた米国の古い映画を順に見ています。
本コーナーでは、喜劇王、チャールズ・チャップリン(1889~1977)の長編4作品を取り上げました。
今回もチャップリンの長編作品ですが、いわゆるチャップリン的な作品とは趣を異にする作品です。
作品名は『殺人狂時代』で、米国では1947年に公開されています。日本の年号でいえば昭和22年で、先の対戦で日本が敗戦して2年目の年です。そうしたこともあり、本作が日本で公開されたのは1952年です。
舞台をフランスに設定しているため、原題は”Monsieur Verdoux”というフランス語で、日本語に訳すと「ヴェルドゥ氏」となり、チャップリンがアンリ・ヴェルドゥという中年男を演じています。
ヴェルドゥには実在したモデルがいます。フランス人のアンリ・デジレ・ランドリュー(1869~1922)という男です。
ネットの事典、ウィキペディアに添えられている写真を見ると、額が禿げあがり、髭がぼうぼうと生えています。眉は太く、眼は大きくありません。愛想が良さそうにも見えません。
少なく見積もっても、女性には好かれそうに思えません。
ただ、当人に実際に会った人でなければわからない魅力のようなものを備えていたのかもしれません。
男は、30代後半から50代の、それなりに金を持っていそうな女性に近づき、女性から金を騙し取り、殺す犯行を繰り返しました。その数は10人です。
男は警察に捕まり、裁判の末、ギロチンで頭部を切断する斬首刑に処せられています。
斬首といえば、この土曜日(6日)に放送された「刑事コロンボ」シリーズ(※この回から新シリーズ)の「呪われた超能力」では、容疑者が自分のマジックショーで使っていたギロチンを使い、首を斬り落として殺害します。同シリーズ中、最も残虐な殺害方法といえましょう。
実在した連続殺人者をモデルにした作品ですから、それ以前の、見慣れたチャップリン作品とは趣が随分違います。本作が米国で公開されたとき、チャップリンは58歳です。
チャップリン作品でおなじみの浮浪者風の衣装とメイキャップはなく、社会一般の中年男性として演じています。とはいっても、いつも上等な身なりをし、口ひげを蓄えています。
斬首刑になったような実在の殺人犯をチャップリンが演じているわけですから、さぞや陰惨な作品だろうと思われるかもしれません。しかし、見てみればわかりますが、ユーモラスに描かれています。
殺人の場面は一切ありません。
本作で助演にあたるのが誰かといえば、世にも稀な連続殺人犯のヴェルドゥに狙われたアナベラ・ボヌールを演じるマーサ・レイ(1916~1994)でしょう。
マーサ・レイという愛すべき芸人がいることを知ったことが、本作を見たことの最大の収穫と思えるほどです。
本作での彼女の演技は抱腹絶倒もので、チャップリンと彼女の名演技を見るためだけに繰り返して見たくなります。
マーサ・レイ演じるアナベラは独り身で、メイドとふたりで暮らしています。このアナベラに、ヴェルドゥが貨物船の船長をしていることにして近づき、隙あらば、彼女を殺し、彼女の財産を手に入れようとしています。
アナベラは開けっ広げな性格で、皆がびっくりするほどの馬鹿笑いが彼女の特徴です。
女友達が、彼女の運勢をトランプ占いし、彼女は強運の持ち主で、転んで首の骨を折っても死なないだろう、といいます。それは、そのあとに証明されるわけですが。
ヴェルドゥが、航海を終えたことにして、船長のような身なりで、アナベラの家を訪れます。彼を迎えたアナベラは、「私の子鳩ちゃん」と彼を呼びます。
ヴェルドゥは、友人の薬剤師から仕入れた毒薬を配合し、ワインに混ぜてアナベラに飲ませて殺す計画を立てます。この毒薬の配合を使えば、飲んだ人が1時間後に睡魔に襲われ、心臓の発作で死んだように見せることができるそうです。
配合した毒薬を、脱色剤のラベルがついた小瓶に入れてアナベラの家へ持って行き、ワインに混ぜて飲ませようというわけです。
ところが、不測の事態が起き、中身が、本来の脱色剤に戻ってしまいます。
そうとは知らず、船長に化けたヴェルドゥは、アナベラの家にあるワインに混ぜ、グラスに注いでアナベラに勧めます。
アナベラはあっけらかんとした性格で、勧められたワインを、美味しいといって飲みます。いくら飲んで様子に変化が見られず、ヴェルドゥは不思議がります。
まじめなことを書くようですが、脱色剤は飲んでも大丈夫なのでしょうか。アナベラは、それが入ったワインを、美味しいといって飲んでいるのですが。
ヴェルドゥは、健康のためと称し、別に用意した健康飲料を飲んでいます。ところが、ちょっとしたことでふたりのグラスが入れ替わり、アナベラに飲ませていたワインを彼自身が飲んでしまいます。
それに気づいたヴェルドゥは、居ても立っても居られなくなります。
ヴェルドゥは、別の夫人にも近づき、騙して結婚するところまで漕ぎつけます。それはいいのですが、いろいろな人間に成りすまして犯行を続ける彼にとり、誰が集まるかもわからない結婚披露パーティに出なければならなくなります。
人が三々五々集まるうち、どこかから、聞き覚えのある馬鹿笑いが聴こえてきます。顔を見なくても、アナベラが人々の中にいることがわかったのですから、さあ、大変です。
アナベラを発見し、彼女に悟られないように、その場から逃げ出すまでの流れは、往年のチャップリン映画そのもので、楽しめます。
ヴェルドゥが斬首刑に処せられる直前、彼に面会を求めたひとりの記者に対し、彼はこんな皮肉を述べます。モデルにされた実在の殺人者も、同じようなことをいったそうですね。
いいか。歴史的にみても、殺しは一大ビジネスになる。戦争も紛争も、全部ビジネスだ。ひとり殺しただけならただの悪党でしかない。悪党は罰を受ける。
とんまになりたくなかっら、ひとりでも多く殺せばいい。私が100万人殺していたら今頃英雄だ。人殺しでしかない戦争や紛争がビジネスになるというのはそういうことだ。殺した人間の数が罪を正当化してくれる。
今の新コロ茶番騒動ですが、数字による正当化で、人殺しのビジネスを展開していないといえますか。それがビジネスであることが暴かれれば、首謀者は、断頭台送りとなります。
彼のもとを去ろうとする記者が、「最後に何かいいたいことはあるか?」というと、「ある」と答え、続けて「さようなら」と一言いいます。
実在の殺人鬼は、処刑前に勧められた強い酒を断ったそうですが、チャップリンが演じるヴェルドゥは、一度断り、それがラム酒だったため、飲んだことがないといって飲み、処刑台に向かうところで幕となります。
新コロ茶番で斬首刑に処せられる悪党たちは、チャップリンが演じた殺人鬼のように、殺人ビジネスを論じる余裕を見せることはできますか?
他人を殺すのは平気でも、自分が殺されるのがわかったときは、絶叫し、のたうち回って首を斬り落とされるのでしょうよ。無様ですねぇ。
胴体と分かれた血だらけの汚らしい頭部は、サッカーボールのように、ゴミ溜めに蹴り落とされておしまいです。あとはウジ虫と一緒。
自分たちを英雄だと騙せなかったら、ただの悪党でしかありません。騒動の協力者の報道関係者も、首を洗ってお待ちください。
断頭台はこちら_。