松本清張(1909~ 1992)の『渡された場面』を読み終えたので書いておきます。
本作は、『週刊新潮』に1976年1月1日号から7月15日号まで連載されています。年号でいえば昭和51年の作品になります。当時を知る人であれば、その頃の社会情勢を重ねて読むといいでしょう。
1976年といえば、長谷川和彦(1946~)の初監督作品『青春の殺人者』と『タクシードライバー』が劇場公開されています。ある意味、個人的には思い出深い年です。
舞台は、佐賀県の唐津に近い坊城(ぼうじょう)という架空の町です。今は唐津の一部となる呼子町がモデルとされたようです。
玄界灘に面した町で、漁業が盛んです。この町にある千鳥旅館にひとりの泊り客が宿をとります。男は小寺康司といい、東京に住む中堅の小説家です。
小寺は、旅館が一年で最も暇な時期にあたる2月13日から10日間、海を見渡せる部屋で過ごします。この部屋の係女中が真野信子という24歳の女です。
信子には付き合い始めて2年ほどになる下坂一夫という恋人がいます。下坂は唐津に住み、家は街では名の通る陶器店です。一夫は次男で、商売を手伝ってはいますが、小説家を目指しています。
唐津周辺で小説家志望の人間を取りまとめ、一夫が主宰者のようになり、『海峡文学』という同人誌を刷り、その雑誌に載せる小説を書き、東京の出版社へ『海峡文学』ができるたびに送っています。
信子は林芙美子(1903~1951)の小説が好きで、自分でも小説を書くようなことをしています。ただし、自分が書いたものは発表するつもりは今のところありません。
このように、信子は小説に憧れのようなものを抱いているため、自分が係女中をする部屋に宿泊する小寺が東京の小説家と知り、興味を持たずにはいられなくなります。
千鳥旅館に宿をとったものの、小寺の創作活動は思うように進まず、気分転換を兼ねてか、宿を三日間明け、別の町へ行きます。
信子は小寺のいない部屋を掃除していたとき、折りたたんだ新聞の下に、執筆した六枚の原稿用紙があることに気がつきます。
いけないこととは知りつつそれを盗み読むと、恋人で小説家志望の一夫が書くものとは比較にならないほど素晴らしい出来です。信子はそれを自分のものにしようと、紙に書き写してしまいます。
それを一夫に見せると、小寺の書く文章は古臭いと馬鹿にし、頭からそれを否定してしまいます。
何も知らずに東京へ戻った小寺は、3月初め、心筋梗塞(だったかな?)で急死してしまいます。
ここまでの展開を見ると、誰にでも先の筋が容易く読めてしまいます。そんな簡単な構成でいいのかと思っていると、まったく別のところで動きが起こり、絶対に結び付かないと思われたふたつの事件が重なる構成です。
信子が書き写した小寺の原稿を馬鹿にしていたはずの一夫は、それを自分の作品にそのまま盗用し、自分の『海峡文学』で発表します。
本作には『文芸界』という権威のある純文学を扱う文芸雑誌が登場します。それが『文學界』がモデルであろうことはすぐに推測できます。本文芸雑誌は文藝春秋から出版されており、本雑誌に載った作品が芥川賞の候補になることが多いといわれています。
本雑誌は、1951年から2008年まで、「同人雑誌評」というコーナーを設け、全国各地から同社に送られてくる同人誌に掲載された作品から、気になる作品を紹介しています。
清張はそのあたりのことは十分承知しており、『文芸界』と名前を変え、そのコーナーを利用しています。
そのコーナーで、一夫が書いた『野草』という作品の一部が取り上げられ、「六枚程度の部分の描写だけは優れている」と絶賛されます。それが、信子から教えられた小寺の原稿であることはいうまでもありません。
信子が一夫と付き合っていることは誰も気がついていません。それだから、信子から一夫が小寺の原稿を手に入れたのではないかと同人仲間の古賀吾市という男に刑事が尋ねると、次のような反応を示します。
「そげなバカなことはありませんばな。小寺氏は下坂君とは会ったことも話したこともなかです。下坂君は千鳥旅館に行ったこともなかです。そいが、どがんして小寺さんが下坂君に原稿ば渡しますか?」
(中略)
「下坂君が霊力のようなものば持っていて、小寺さんの書きんしゃった原稿ば、宇宙中継のごと離れたところから、すうっと読みとるとでしたら、話は別ですばってんね」
松本清張. 渡された場面(新潮文庫) (p.215). 新潮社. Kindle 版.
古賀は信子を片想いしています。その信子と一夫が出来ているとは夢にも思っていません。一夫が信子の存在さえ知らないはずなのに、信子から小寺の原稿をどうして受け取れるのかと驚いているわけです。
それは抜きにして、「下坂が『霊力』のようなもので小寺の原稿を読み取ったのか」と書かれた部分を読み、最近続けて読んだ村上春樹(1949~)の一連の作品を重ねないわけにはいきません。
村上は、現実には決して起こりそうもないことを毎回、さも当然のことのように書いてしまいます。清張の本作で起きた小寺の原稿の盗用も、村上に会えば、盗用でもなんでもなく、それこそ「霊力」のようなもので実現したことにされてしまいそうです。
清張は四国のある県で起き、裁判が行われている事件を絡め、冤罪につながる捜査の盲点のようなことを書いています。
ヒントを書いておけば、小寺が原稿六枚に書き、それを小寺自身が反故にした原稿に描写された場所が、四国で起きた事件の現場と相似していることです。
本作が書かれた当時はまだ、本土と四国を橋で結ぶ本四連絡橋はできていません。四国から九州へ行くには、船で広島の尾道まで行き、そこから列車で九州へ向かうと書かれています。
四国の事件を清張は、供述書の形で、克明に描いています。その生々しさを描くことが村上にはできないでしょう。清張が各作品の登場人物にはきちんと血が通っています。
清張はそれを、今から48年前、締め切りに追われる中で、作品にまとめています。
締めくくりも、村上のように不必要なほど懇切丁寧に書くことを清張はしていません。一夫の矛盾を一つひとつ突く尋問調書の写しを示すだけです。