人には生まれ持った性格というものがあります。さて、それを、気に入らないからといって、意識的に変えることは可能でしょうか。
自分の性格は自分が一番わかっている。と、普通考えがちですが、ならば、私の性格を私が100%わかっているかとなると、甚だ自信はありません。結局のところ、その人の性格、いい方を換えれば、日頃の言動の傾向というものは、世間的には、他者の眼に映るもので解釈されている、ということにでもなるのでしょうか。
いや、別段深い意味があってこんなことを書き出したわけではありません。私の場合はいつも気まぐれ、思いつき。本日分を書き出す上で、たまたまこんな風なことが頭をよぎっただけに過ぎません。
人の性格を本日分の話の枕に持ってこようと考えたきっかけは、おとといの日曜日、東京・東池袋にある映画館新文芸坐で聴いた映画監督・原一男さんのお話の中に、当然のように今夏の特別企画「追悼 社会派の巨匠・熊井啓」の主役である故・熊井啓監督の性格についての話が出てきたことがあります。
昨日の本コーナーでは、おととい見てきたばかりの熊井監督の作品『ひかりごけ』について書き、上映の合間にあった原監督のトークショーを手持ちのDV(デジタル・ビデオ)カメラに収録してきたことを報告しました。
その収録ビデオは、近いうちに編集をし、紹介してもいいと考えていますが、原監督のお話を伺っていて、いくつか記憶に残ったことがあります。それは師匠格の熊井監督の性格について語られた部分です。原監督のトークショーは30分ほどでしたが、性格について触れた部分は、カメラをストップして、ビデオに残っていないと思います。
それで、自分の記憶をたぐり寄せながら書いてみようと思いますが、そのひとつは、熊井監督は酒乱の持ち主であったという原監督(「原監督」なんて書きますと、野球のユニフォームをイメージしてしまいがちですが、以後「原監督」が登場する場面では、読売ジャイアンツの「原監督」はイメージの外に置いてください)の証言です。そうした話は、今はインターネットの時代ですから、前に何度も「2ちゃんねる掲示板」で目にしました。しかし、その事実を熊井監督について仕事をされた原監督の口から直接聞いたことで、初めて実感を伴って受け入れることができました。
原監督は、監督がどのように酒乱であったか、などと詳しく話されたわけではありません。ただ単に、「酒乱でした」とその事実を話されただけです。原監督がもうひとりついた監督に浦山桐郎さんがいるのだそうで、こちらの監督もまた酒乱で、「どうして僕がつく監督は酒乱ばかりなんだ」と茶目っ気のある笑顔を見せて話され、場内の笑いを誘っていました。
おそらくは、酒乱という結果行為にもつながるのだと私は思ったのですが、原監督に熊井監督の奥様は「夫は子供みたいなところがありました」と話されたそうです。おとといのトークショー会場に来る前、原監督は亡き監督に報告かたがた、奥様と話をしてこられたそうです。
立派な大人をつかまえて、「子供みたい」と評すのは、果たして褒めていることになるのでしょうか。私自身、自分で自分の性格を分析すると、「子供みたい」という結論に落ちつくことが多いです。私が考える「子供みたい」は、「自分勝手」といういい方に近いものだと思っています。好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。欲しいモノは欲しい。いらないモノはいらない。
私が本当の子供だった頃、たまたま恵まれていただけかもしれませんが、子供の自分が欲しいと思ったモノはたいがい手に入れることができました。祭りに行けば行ったで、手当たり次第にオモチャが欲しくなり、それらを全部親に買ってもらいました。それが果たして、今の自分によかったのか悪かったのかはわかりませんが、よかろうが悪かろうが、今の自分の性格形成に影響を与えているに違いありません。逆にいえば、自分の性格がそうだったから、子供の頃からそのような行動に出ていたともいえます。
熊井監督の性格の話に戻しましょう。
熊井監督の作品に『式部物語』があります。この作品が製作されたのが1990年といいますから、昨日の本コーナーで書いた『ひかりごけ』が作られる2年前ということになります。この作品でも、原監督が監督補として参加しています。
その作品には、岸恵子さんが出演しています。熊井監督が岸さんの起用を決めたそうです。もしかしたら、憧れのようなものがあったかもしれません。自分で自分の作品に指名しておきながら、熊井監督は女優・岸恵子に演技指導ができず、原監督補に「原ちゃん、頼むよ」と助力を求めたそうです。
たとえば、岸の顔をクローズアップで撮りたいと思ったものの、全く撮れないといいます。なぜか? 岸は演技をしながら、身体を小さく動かすからだといいます。
画面一杯に狙ったフレームの中で、対象者に左に右に動かれてしまってはお手上げです。演技の基礎ができた役者はそれを十分心得、クローズアップの撮影と知れば、自然と足を踏ん張って演技するといいます。一方、岸は子役の頃から売れっ子となってしまったために周りからちやほやされ、演技の基礎ができていないといいます。それで、静止が求められるクローズアップの演技でも、自由気ままに身体を動かしてフレーム・アウトしてしまうとなります。
狙ったカットが撮れず熊井監督は困ります。しかし、女優(=女性)にどう接していいかわからない監督は、仕方なく監督補の原さんに「原ちゃん、頼むよ」と助け船を求めることになります。原監督とて、大女優の岸に嫌われては困ります。というより、熊井監督が岸からよくない印象を持たれないよう、それはそれは気を使って熊井監督の意向を伝えたようです。
これも熊井監督の性格といっていいものかどうかわかりませんが、監督は女優の演技指導には一歩引くところがある一方、男優の男臭い演技を指導させたら抜群の冴えを見せたそうです。なるほど、おととい見たばかりの『ひかりごけ』でも、主要登場人物は男ばかり。男の世界です。原監督がトークショーでホモという言葉を使ったかどうか。ビデオに残せていれば確認できますが、なにがしか、それらしき匂いに注目して作品を見返すことで、同じ作品が別のものに見えてくることもなくはなさそうです。
おっと、本日は、おととい見た2作品の内、昨日本コーナーで書けなかったもう一本『海と毒薬』(1986年|新日本映画社)について書き出したというのに、枕の部分が想定していた以上に膨らみ、本題の書き出しが大幅に遅れてしまいました。そういえば、熊井監督の特集が組まれたおとといは場内満員で、私が見た2回の上映とも上映開始時刻が予定よりも遅れましたっけ。
『海と毒薬』というタイトルから、どのような内容を予想されるでしょうか。私は全く予備知識がなく、どんな話が展開されるのかと上映開始を待ちました。
始まった画面を見てまず驚きました。色がついていません。白黒画面です。この作品の監督補を務められた原さんのお話によると、この作品の話があったとき、開口一番、熊井監督からは「白黒で撮りたい」といわれたそうです。製作されたのが1986年ですから、その当時、モノクロームで撮る監督はほとんどいなかったのではないかと思います。この作品で重要なポイントを占める「血の色」も白と黒の階調で表現しなければならなくなります。色を消すことで、要求は逆に高まったといえましょう。
舞台は九州にある大学病院。時代は終戦の年の昭和20(1945)年。その割には、戦争戦争していません。古いフランス映画の匂いさえ感じさせます。そういえば、原監督は、「ネオリアリズムの作風で行きたい」(←耳から聞き、また記憶が確かでないため、もしかしたら聞き違い、記憶違いかもしれません)と語ったという熊井監督の狙いを披露されました。
空爆を受けて、防空壕へ待避するシーンもあるにはありますが、見終わったあと、それが強烈に印象に残るということはありません。それよりも、大学病院という組織の人間関係、そして何といっても、手術のリアルなシーンが強烈に印象に残りました。
その手術シーンを担当したのが、原監督補だったのです。熊井監督は「僕は血が苦手だから、原ちゃん頼むよ」と原監督頼りだったそうです。
作品に登場する手術シーンは2つあります(←もっとあったかな?)。
2つめの手術シーンが問題の、米兵の生体解剖です。「生体解剖」。読んで字の如しで、人間を生きたまま解剖するという飛んでもない行為です。これは戦時中、九州の大学で実際にあった事件(「九州大学生体解剖事件」)を遠藤周作が小説(「海と毒薬」)に書き、それを熊井監督が取り上げたもののようです。
大学側は、軍部の要請を断り切れなかったのか、それともこれ幸いと、その機会を医学の研究に利用しようと考えたか、軍の要請を受け入れます。執刀医は、同大の第1外科部長(だったかな?)・橋本(田村高廣)。研修医で性格が正反対の勝呂(奥田瑛二)と戸田(渡辺謙)も借り出されます。この作品に登場する渡辺謙ですが、生まれたのは1959年。ということは、この映画の公開時は27歳。撮影されていたときは26、7歳になりますか。純粋な性格の勝呂に対し、善であろうが悪であろうが全く動ずることのないロボットのような精神を持った青年をクールに演じていて印象的です。この辺りは、男優の演技指導に長けた熊井監督の面目躍如といったところでありましょうか。
初めての生体解剖が行われる当日。手術室に1人の米兵が連れてこられます。彼は米軍の爆撃機B29のパイロットで、墜落したあと捕虜になっていたようです。米兵は、直後に自分が生きたまま解剖されて殺されることなど知るはずもなく、手術室に現れます。
教授が来るまでの用意を任された浅井(西田健)が米兵と英語で冗談を飛ばしたあと、「心臓を看ますから、ちょっとベッドに横になってくれませんか」と米兵をベッドに寝かせます。次の瞬間、米兵を麻酔薬を含んだガーゼで鼻と口を塞ぎ、必死に抵抗する米兵を、浅井をはじめ室内にいた戸田や看護婦長(岸田今日子)や看護婦(根岸季衣)が米兵に馬乗りになって押さえつけます。手術室内でひとり、それに加わらなかったのは勝呂です。勝呂はその場から一刻も早く逃げ出したいものの、それが叶わず、呆然と立ちつくして一部始終を見ています。
米兵は麻酔薬で静かになり、準備完了。橋本教授を呼びにいきましょう。教授と一緒に、物見遊山の乗りで軍の将校連が立ち会いにドヤドヤとやって来ます。
橋本部長の研究課題は肺で、片方の肺を半分(でしたか?)を切除する手術を米軍捕虜の飛行機乗りに生きたまま行います。米兵にも、国には親兄弟がいて、彼の無事の帰国を待っているんでしょうけれどね。ここはひとつ、日本の医学発展のために身を投げ出してもらいましょうか。
手術シーンは非常に真に迫るものがあります。本物の手術シーンをそのまま収めたとしか思えません。それを見る私は、「どうやって撮影したのだろう???」と頭をひねりまくりました。まず最初、米兵の胸を開くため、メスがスーッと走ります。鋭く皮膚が裂け、その裂け目から、最初の血のほとばしりが、プップッと水滴のように吹き出してきます。
そのカットをラッシュで初めて見た熊井監督は、「やったね、原ちゃん」と原監督の仕事を認めたそうです。
そのあとも、口を開けた内臓が白黒の映像で克明に描写されます。生きて動く臓器、臓器、臓器。それらをどのようにしてフィルムに定着できたのか?! 種明かしは上映後のトークショーでありました。この部分はビデオにしっかり収めてあります。ということで、私からの種明かしは、トークショーの動画を紹介することがありましたら、そのときにすることに致します。
以上本日は、原監督のトークショーで伺った話も含め、おととい見た『海と毒薬』を振り返ってみました。
私は3年前、脳の手術を受けています。自転車に乗っていて転倒し(? その前後の記憶が全くないため、「多分そうなんだろう」と受け止めています)、側頭部を道路に強打し、そのまま意識を失ってしまったのでした。人命を助けてもらうために手術を受けたわけですが、そのとき、救急患者の私を受け持った脳神経外科医はどのような心境だったでしょう?
何とか人を助けたいと勝呂のように考える医師だったか。それとも、人の生き死にには無感覚の戸田のような医師だったのか。わかりません。一個の人間の思いは、本人以外にはわかりません。そして、どのような医師であっても、自分の命が助けられ今の自分がいる、という厳然とした事実があるだけです。