昨日は、夏到来を思わせるような暑い陽気の中、東京・上野にあります東京都美術館へ足を運んできました。現在、同美術館で開催中の企画展「フェルメール『画家のアトリエ』栄光のオランダ・フランドル絵画展」(2004年4月15日~7月4日)を見るためです。
それにしても、秋は「芸術の秋」あるいは「美術の秋」ともいわれるほど展覧会が目白押しですが、春の今頃というのも「美術の春」といってもいいほど、企画展や美術団体展が数多く開かれます。これは、寒い冬が終わり、人々が活動的になる季節に合わせてのことでしょうか。
今回の企画展での目玉は何といってもフェルメール(“WebMuseum: Vermeer, Jan”)の超有名な作品『画家のアトリエ』の展示でしょう。
お目当ての作品は、展示会場の一番最後、出口の直前に展示されていました。ただ、展示された作品の表面を保護目的のアクリル板で覆ってあり、さらにやや高めの位置での展示となっているため、近づいて細部を観察することもままなりません。
結局は「一応本物は見た」といった程度の鑑賞でしかなく、個人的には満足を得られるものではありませんでした。
なお、この作品の作者であるフェルメールという画家ですが、一種独特の位置を占めているように思います。もちろん彼が生きていた時代にも名の通った画家だったのでしょうが、それにしては残された作品数が、他の同時代の画家に比べて、極端に少ない40点未満というのはどうしたわけなのでしょうか。
また、その残された作品を見ても、人物は同じ室内を用いて制作されたことが窺われます。以前に読んだ専門書によりますと、彼は子沢山で、多くの場合、自分の娘をモデルにして作品の制作を続けたそうです。
さらに、実際の制作に際しても、カメラ・オブスキュラといわれるカメラの前身のような装置を用いたのではないか、という一つの説があることはよく知られたところです。これはあくまでも一つの仮説でしかなく、真偽のほどは定かではありません。
ただ、そうした仮説が頷けないこともないのは、対象物の表面で微妙な表情を見せる光の表現が、人間の目で捉えたものというよりも、レンズを通して映し出されたもののように見え、それがフェルメールの作品の魅力を高めることにつながっていることがあるからです。
それはともかく、今、フェルメールはちょっとしたブームになりつつあるのか、フェルメールをモデルにした映画『真珠の耳飾りの少女』が公開中です。私もこの作品はぜひ見たいと思っているため、敢えて詳しいストーリーは自分の中に事前の情報として取り入れないようにしているのですが、史実を忠実に描いた作品なのでしょうか。映画の方につきましては、実際に見たあとにでもまた書いてみます。
なお、フェルメールは43歳という働き盛りの年齢でこの世を去っているわけですが、生涯生まれ故郷であるデルフトで過ごし、ほとんどこの街の外へは出ずに生涯を終えているという話です。
そうした彼の一生を聞きますと、先ほどのカメラ・オブスキュラを使っての絵画制作が彼の人生像に重なってくるものを私は感じてしまいます。実際、デルフトという街がどれほどの広さを持った街なのかは知りませんが、ともかくも、自分がよく知った街の空間だけで過ごし、さらには、カメラ・オブスキュラという暗箱の暗がりに身を潜め、外界の光の表情に恍惚とする一人の男の姿がイメージされるではありませんか。
もしも私がフェルメールという一人の奇妙な画家を映画で描くことを許されたなら、恋愛話などは一切なしにして、光を絵具という物体で表現することだけにとりつかれた“風変わりな男”(実際の彼が風変わりであったかどうかは別にして)として描いてみたい気がします。
今回の企画展では他に、私が最も好きな画家であるレンブラントの作品が2点ありましたが、本当に彼の作品なのかどうかの個人的な疑念も含め、やや迫力に欠けていたように思わないでもありません。
また、レンブラントの親世代で、レンブラントがその作風同様に光と陰に彩られた人生を歩んだのとは対照的に、光、光、光だけのような人生を歩んだルーベンスの作品も目に付きました。
彼は当代きっての大画家でありながら外交官として国の要職もこなすなど、多忙を極め、本業の方でも、下絵だけを制作して、それを基に彼の絵画工房の多数の弟子たちに仕上げさせるなど、一種流れ作業のようにして大量の作品を制作しており、ルーベンスの作として残る作品であっても、どこまで彼の手が実際に入っているかは、その都度検証する必要があります。
それでも、今回の企画展で展示されていた『自画像』はおそらく彼自身の手による作品のはずで、その巧みな筆さばきには感心せざるを得ません。
あと印象に残ったところでいいますと、ブリューゲル(父)の2点の「習作」も面白いと思いました。これは本作のために動物を油彩の写生風に描いたもので、彼がどのように作品を仕上げていったのかがわかるような楽しさがあります。それにしても、対象物の形が迷いのない輪郭線で描かれており、そのデッサン力の巧みさには舌を巻くよりほかなさそうです。
他には、ヘラルト・テル・ボルフというオランダの画家の『林檎の皮をむく女性』という小品も印象に残りました。写実的な表現ですが、人物が身に着けている衣服の質感が非常にリアルなのです。どんなに高解像度の写真でもあれだけの忠実な再現は不可能でしょう。それだけ見事な表現となっています。
総じて、17世紀のオランダ絵画は小品が多く、今回展示されている作品が実際はどうだったのかはわかりませんが、一般の庶民が自宅の壁に飾って楽しむのにはこれ以上最適な作品はないと思います。私なども今書きましたテル・ボルフの作品が手元にあり、毎日飽きるほど眺めることができたなら、どんなに素晴らしいことかと思います。
結局のところ、17世紀のオランダ絵画のように、絵画の需要が社会の中に現実的にあり、需要に応える形で絵画が制作されていた時代の“健全さ”のようなものが感じられます。それに対し、現代は絵画の制作行為そのものが必要以上に有難いことのように祭り上げられており、実際に制作された作品がどうしてそこに存在しているのかの「存在意義」が極めて希薄になっているように思います。
絵などなくても人は生きていけるわけですし。
そんな悩ましい考えを巡らせながら展覧会場を出てくることになりました。