昨日の午後、ネットの動画共有サイトのYouTubeで見つけた大瀧詠一(1948~2013)の曲が演奏される動画を続けて三本紹介しました。無性に、大瀧の音楽が聴きたくなったからです。
きっかけは、その日の午後、前日に録画したテレビ番組を見たことです。私が見たのは、前日の午後10時50分から午後11時20分まで、NHKEテレ(NHK教育テレビジョン)で放送された「スイッチインタビュー」です。
私がこの番組を見たのは今回が初めてです。そんな番組があることも知りませんでした。
その放送を知ったのは、当日の朝日新聞のテレビ欄でこの放送を紹介していたからです。
それによれば、ミュージシャンの細野晴臣(1947~)と作家の小林信彦(1932~)が、ふたりで音楽や映画の話をするということです。中でも、細野が影響を受けた映画音楽が、フランス映画の『ぼくの伯父さん』(1958年)であるというのに興味をひかれました。
それで、どんな風に話が展開するのだろうと期待し、夜に放送される番組を録画しました。
それを、それほどの期待もなく、昨日の午後に再生して見ました。
それがなぜ、大瀧詠一に結び付くのかといえば、私がその番組を見て一番印象に残ったのが、ふたりで大瀧の思い出話をした場面だからです。
大瀧と細野は、若い頃に、「はっぴいえんど」(1969~1972)という伝説的な音楽バンドで一緒に活動しています。私は当時のことをリアルでは知りませんが、日本の音楽に絶大な影響を残したでしょう。
それだけのバンドであったにも拘らず、結成からわずか3年で活動を終了しています。そのあたりについて、小林が細野に尋ねていますが、大きな問題があったわけではなく、3年で十分と感じた、というように答えています。
この大瀧と細野に共通するのは、ふたりとも喜劇に興味を持つことです。ふたりは、小林が書いた『日本の喜劇人』という本の熱烈な愛読者です。
小林といいますと、個人的には週刊誌でコラムを書く人、といった程度しか知識を持ち合わせていません。その小林が書いた『おかしな男 渥美清』という本は買って読みました。
この本に書かれていることを本コーナーで書きましたが、それを更新した分が2013年から2016年の間で、その3年間分を、私のサイトのための独自ドメイン取得と変更の過程で綾って失ってしまい、自分でも読み返すことができないのが残念です。
番組で語られたことによれば、渥美清(1928~1996)らも出演したNHKのバラエティ番組「夢であいましょう」(1961~1966)にも放送作家として参加したのだそうですね。まったく知りませんでした。
小林が細野と話をする途中で、ふと、大滝の思い出話が始まりました。
小林は、『日本の喜劇人』の大ファンだったという大瀧とは、喜劇をネタに、何時間でも話せるような間柄だったそうです。
その大瀧を小林が思い出し、「残念だと思うのは、大瀧さんがもしも生きてらしたら」といって、言葉を詰まらせ、涙ぐまれました。
それを受けた細野が、次のような話をされました。
大瀧が亡くなる前なんですけど、「早くソロ(アルバム)を作ってくれ」と人づてに伝言したんですね。いくらでも僕たちは協力するんで、と。大瀧から返ってきた言葉は、「細野のそれは挨拶だ」と。
そのエピソードは、小林が大瀧と対談した時にも出てきたのでしょう。「それはいってましたね」と話しています。
そして、私が強く印象に残ったのが、続けて話した細野の次の話です。
(大瀧にソロアルバムを)本当に作って欲しかったし。(それなのに大瀧は)ずっと部屋に籠って、パソコンで、映画を集めたり、膨大なデータを持っていたんですよね。それは、(彼の)趣味としてはいいけれど、(そうじゃなくて)表に出て、もう一回一緒にできないかと思っていた。その矢先に亡くなっちゃったから、非常に何か、残っちゃってるんですよね。(彼は)やり残しているって気持ちが。(それが)残念でしょうがないです。
細野がした話が頭に残り、ネットの事典ウィキペディアで大瀧詠一を引きました。
そこにある記述を読むと、普通の有名人とは違う何かを感じます。
亡くなったのは、今からちょうど十年前の2013年12月30日です。その死が、あまりにも突然だったのがわかります。
大瀧ほどの有名人であれば、東京の都心に住んでいそうなイメージがありますが、彼が亡くなった場所は、東京西部の西多摩郡瑞穂町の自宅です。
私はその土地を知りませんが、イメージでいえば、自然がまだ残る土地なのでしょうか。一世を風靡した大瀧が自分でその土地を選んでいるあたりが、普通の感覚とは異なっているように思います。
そういえば、生前の大瀧が決して自分が選ばないことが三つぐらいあったのを何かで読んだのを思い出しました。
そのひとつは、音楽をやっている人であれば憧れの場所であろう東京の日本武道館でコンサートをやらないこと、というのがありました。
そのほかには、自分では決して本を出版しないこと、というのもありました。いずれも、そのとおりの生き方をしています。
ウィキペディアに目を通すと、彼のテレビ嫌いは有名だったそうですね。その一方で、自分がテレビを見ることは好きで、ウィキペディアには次のような記述があります。
テレビを見るのは大好きであり、1980年代後半~1990年代前半は自宅にビデオデッキが20台以上あり、それが常時動いているという程のテレビマニアだった。主に相撲と野球を好んでいた
「ひきこもり」的な生活ぶりや、ビデオデッキでテレビ番組を録画しまくっていた、といったエピソードが、私自身に重なるものを感じます。
テレビの仕事は断る一方、声だけのラジオは、自分のレギュラー番組を持つほど親和性を感じていたというのも、何となく私も通じるところがあるように感じます。
私は自分で動画を作る時も、自分の姿は晒さない代わりに、「語り」で声を出すことは嫌いではありません。また、本コーナーでは依然、「語り」で更新したこともあるくらいです。
大瀧は、1984年に発表したオリジナルアルバムの”EACH TIME”が最後で、以後は、自身の音楽をオリジナルアルバムとして発表することなく、この世を去っています。
それを気にかけた細野らが、それとなく誘いかけていますが、それに呼応することはありませんでした。
そのエピソードを聴きながら、孤高の画家を思い浮かべました。
熊谷守一(1880~ 1977)にしても、高島弥十郎(1890~1975)にしても、ギュスターヴ・モロー(1826~1898)にしても、いわゆる「ひきこもり」的な生き方をしています。これらの画家に私が関心を持つのは、自分がそれに似たところを持つからでしょう。
私が最も敬愛するレンブラント(1606~1669)にしても、晩年は社会からひきこもり、独自の表現に磨きをかけています。
大瀧が「表舞台」から姿を消した理由はわかりません。
大瀧に強い興味を持つきっかけとなった番組の最後に、小林と細野が出演した「スイッチインタビュー」は2回に分けて放送され、その1回目が昨日の深夜(2月1日午前0時25分から午前0時55分)に再放送されることが伝えられ、その放送を録画しました。
それはまだ再生して見ていませんが。1回目には大瀧の話は出てこないでしょう。
本日分を更新したあと、午後にその録画を見ると、1回目のはじめに大瀧の話が登場します。
大瀧が小林が、どのようなことで交流を持つようになったのかを細野が小林に尋ねています。
小林は当時ことをはっきり記憶しています。
新宿の紀伊国屋書店(だと思う)の2階に喫茶店があり、店内で大瀧の音楽が流れていたそうです。小林が音楽に詳しい人に誰の曲か尋ねると、大瀧だと教えてくれ、大瀧は小林のファンだ、ともいったそうです。
それを聴いた小林は、大瀧に『日本の喜劇人』送ると、すぐに大瀧からハガキが届き、そこに、会いたいと書いてあったそうです。
実際に会ってみると、初対面なのに、喜劇の話などで語り合えたそうです。
そんな大瀧から、ハナ肇とクレージーキャッツのメンバーに会ってみたいといわれ、ふたりは、メンバーのひとり、谷啓(1932~2010)の自宅を訪問します。
谷が大瀧を知っていたかどうかわかりませんが、ミュージシャンが自宅に来るというので張り切って出迎えたそうです。
その谷が、珍しいレコードを披露します。それが、『ワンダープーランド』(1978)というオムニバスアルバムです。
タイトルから想像できる(?)かどうか、音響デザイナーが趣味で録り溜めてあったオナラの音で構成された音楽です。
番組では、『黄色いさくらんぼ』と『ちょうちょう』の一部が流れました。
番組ではほかに、渥美清やトニー谷(1917~1987)、弘田三枝子(1947~2020)についての思い出が語られています。
弘田三枝子は天才的で、多くのミュージシャンに影響を与えたそうですね。