私は米国の映画やテレビドラマ、英国のテレビドラマを見る習慣があります。どれも昔に作られたものがほとんどです。
そのひとつに「刑事コロンボ」があります。これは一話完結のシリーズ物で、旧シリーズが45話、新シリーズが24話で、合計69話です。
その69話がこの土曜日(21日)に放送され、旧新全話の放送が終了しました。このドラマは、間隔を開けて定期的に放送されますので、少し経ったら、また1話の放送が始まるでしょう。
私はこのシリーズを何度も見ていますが、放送が始まると見てしまいます。今回も全話を一度録画し、録画した番組を再生させて見ました。
最終の69話は「殺意のナイトクラブ」で、米国では2003年1月30日に、日本では2004年2月7日に初めてオンエアされています。
これで本シリーズは終わった、と思っていたら新シリーズの制作と放送が始まりました。新シリーズの一作目は通算46話にあたる「汚れた超能力」です。この放送が米国では1989年2月6日、日本では1993年5月7日です。ということで、旧シリーズが終わってから14年間のブランクがあります。しかも、日本では放送するテレビ局がNHKから日本テレビに変更されています。
本シリーズは全部で69話までありますが、日本テレビで放送したのは66話目の「殺意の斬れ味」(2001年4月13日)までです。それに続く2話はWOWOWで放送されました。WOWOWはBSの有料放送局で、私は契約していませんので、リアルタイムでは見ていません。
そして、本ページで取り上げたシリーズ最終話だけが、BSの有料テレビ局STAR CANNELで放送されています。ですので、こちらも私はリアルタイムでは見ていません。
この最終話は別の意味でもほかの作品とは違う点があります。それは、邦題がふたつあることです。STAR CHNNELで最初に放送されたときは、本ページで書いたように「殺意のナイトクラブ」でした。それをのちにWOWOWでも放送していますが、その時は邦題が「虚飾のオープニングナイト」に替わっています。
シリーズ全話を放送したNHK BSプレミアムでは、WOWOWの邦題に倣い、「虚飾のオープニング・ナイト」としています。
若い脚本家と監督が作った作品で、旧シリーズとは味わいが違います。そのため、このシリーズのファンにはあまり評判がよくないと聞きます。
私も特別好きな部類の作品ではありません。
映像はコントラストが強く、影の部分は真っ黒になっていたりします。
その作品から、一部分を動画にしましたので、下に埋め込んでおきます。
事件を捜査するコロンボは単独で行動することが多く、本動画でも、ひとりである男の家を訪ね、男のいい分を訊いています。
コロンボに尋ねられる男の役を演じるのはジョン・フィネガン(1926~2012)です。本シリーズのファンであれば、男の顔をひと目見て、見覚えのある俳優であることに気づきます。私もすぐに気がつきました。
彼が本シリーズに初めて出演したのは、コロンボを演じるピーター・フォーク(1927~2011)が、本シリーズで唯一監督をした9話の「パイルD-3の壁」です。
その回でフィネガンは、作品の重要な要素に関る場面に登場しています。
この回の犯人は建築家で、彼が設計したビルの基礎工事をする現場で、主任をする男がそのときのフィネガンの役回りです。確か、作業服を着て、赤いヘルメットをかぶっていました。
この回が米国で放送されたのは1972年2月9日です。そして、今回の最終話が2003年ですから、31年の開きがあります。
その後、フィネガンは本シリーズの脇役として何度も登場しているため、本シリーズを続けて見ている人には顔なじみとなってしまいます。
彼は本作を含め、12回、本シリーズに登場しています。あるときは、警察でコロンボの同僚を演じています。
以上、本シリーズと本作について書きました。
それはそれでいいのですが、本ページに埋め込んだ動画を見て、おかしな部分があることに気がつかれましたか? 私は録画した番組を再生させ、埋め込んだ動画の部分が映し出されたとき、その「ミス」に気がつきました。
プロの映像制作集団が作った人気のテレビシリーズで、こんな初歩的なミスをすることもあるのですね。
「ミス」というのは、フィネガンが演じる男が、カットが替わるごとに、眼鏡をかけたり、外したりしているようにしか見えない写り方になっていることです。
しかも、ピーター・フォークとフィネガンのふたりが、そのミスがないこととして演じています。
それは別にして、米国ではこのような撮り方が基本となるのでしょう。このことについては、本コーナーで一度書きました。
脚本に、ふたりが相対して会話する場面があるとき、おそらく米国の制作現場では、交代で俳優が台詞をいうときでも、一方向からのカメラで撮影されるのであろうことです。
テレビ映画であっても、米国では、劇場映画と同じ35ミリのムービーカメラが使われるそうです。ということは、カメラ自体が大きく、三脚の上にしっかりと固定されています。
また、俳優とセットを撮影するため、適切な照明がセッティングされます。
それを、脚本道理に撮影したのでは、そのたびにカメラの位置を動かし、照明もセッティングし直さなければならなくなり、撮影が進みません。
そこで、一定方向に撮影のセッティングをしたら、脚本の順番に関係なく、一方向の俳優が台詞をいうシーンを、続けて撮影して今うのが効率的です。
しかも、このやり方で有効になるのは、同じ台詞をいう演技を何度も繰り返して撮ることができ、その中で最も良い演技だけを選ぶことができます。
今回の場面もそのように撮影されたのだと推測します。今回のシーンでは、フィネガンが立つうしろはドアになっており、閉まっているドア越しに撮影するのは不可能です。
ですので、ドアを外すかして、カメラをセッティングしたのでしょう。
それはそれでいいのですが、フィネガンは普段は眼鏡をかけているのかもしれません。
それで、コロンボ役のフォークが演技するとき、後姿の一部が写る位置に立ち、フォークが台詞をいうシーンを撮ったのでしょう。
その際、普段かけている眼鏡をフィネガンが外すのをうっかり忘れてしまった(?)のかもしれません。
それにしても、そのとき撮影現場にいた監督をはじめとするスタッフがそれに気がつかなかったのが不思議です。おまけに、編集の段階では嫌でも気がつくはずですが、かけていないはずの眼鏡をかけたままのフィネガンが作品に残り、修正もされないまま、オンエアされてしまうことになりました。
本作では、犯人が設計したナイトクラブがオープンしますが、内装が凝られており、床の下に水槽をいくつも作り、その上面に強化ガラスがはめられており、ガラス越しに水槽を泳ぐ魚が見えるようになっています。
しかもその魚というのは、日本で生まれた「泳ぐ宝石」といわれる錦鯉(にしきごい)です。この鯉については、少し前の本コーナーで取り上げたばかりです。
コロンボが犯人にその魚の名を訊くと、犯人は「鯉」と答えます。向こうでは、錦鯉も鯉というのでしょうか。
Google翻訳で確認してみると、”koi”と素っ気ない翻訳がされました。