本日の朝日新聞に、国会議事堂で宝石が泳いでいることを伝える記事が載っています。
こう書いただけで、あるものをイメージできた人はどれぐらいいるでしょうか。
「宝石が泳ぐ」を逆のいい方に換えれば「泳ぐ宝石」になり、それはすなわち「錦鯉(にしきごい)」であることに気づくことができます。
記事では、随分前のことを取り上げています。昨年10月25日にあった出来事だからです。
その日、国会議事堂がある敷地内の衆議院側の池に、錦鯉が30匹放流されたそうです。その放流に与野党の議員が集まり、和気あいあいと、水槽から鯉が一匹ずつ池に放たれたそうです。
それらはすべて、新潟県産の錦鯉で、1匹が30万から50万円するものだそうです。
この記事を読んで思い出したのが、昔、NHKで放送された番組です。
前々回の本コーナーで、私は昔に放送されたNHKの番組ふたつを録画して見ていると書きました。そのひとつの「NHK特集」(NHK BSプレミアムで毎週火曜日の午後6時から放送中)で、昨年12月20日に放送されたのが、「鯉師 ニシキゴイにとりつかれた男たち」です。
この番組が作られて放送されたのは、35年前の1988年です。当時、日本はバブル経済に沸き立っていたでしょう。おそらくは、錦鯉の値も高騰したかもしれませんん。
番組でも、錦鯉が二度目のブームになっていると伝えています。ちなみに一度目のブームは、高度経済成長時代だそうです。やはり、金回りが良い時にブームは起こるもののようです。
昨秋、衆院側の池に放たれた鯉が新潟県産である、と記事にあることを書きました。実は、錦鯉の生産地が新潟県の山古志村(やまこしむら)であることは、錦鯉に関心を持つ人にはよく知られたことなのでしょう。
私は、昔に作られたこの番組を見るまで知りませんでした。
山古志と聞きますと、20年ほど前、大きな地震に襲われ、大きな被害を出したことを思い出す人がいるでしょう。
その地震は、私の記憶では、2004年秋に起こったのではないか、と考えます。実は、その年の秋、私は生涯で初めての入院をし、病院のベッドのわきにあるテレビでその報道を見た記憶があるからです。
私事ですが、その年の8月末に、自転車で急坂を走っている途中で転倒し、頭部を道路に強く打ち付けたからでしょう。私はその旬から意識を失ったのでわかりませんが、通りかかった人の通報で病院へ運ばれました。
私は急性硬膜下血腫を起こしており、緊急の手術で命を救われました。その手術のとき、脳が腫れていたため、切り取った頭蓋骨の一部を元に戻すことができず、二度目の手術をしてもらうまでの間、私の頭蓋骨の一部がないまま、自宅で過ごしました。
そして、二度目の手術で10月末か11月に再入院し、そのときに、病院で山古志の地震の報道をテレビで見たのです。
ネットで確認すると、山古志でも大きな被害を出した新潟中越地震は、同年10月23日の午後5時56分に発生していたことがわかりました。
朝日の記事によれば、国会議事堂の敷地内の中庭には、衆院側と参院側にそれぞれ、立派な彫刻が施された石造りの池があるそうです。
その池に、2012年、30匹の錦鯉が放流されたそうです。それが初代とすれば、昨秋に放たれた錦鯉は二代目ということになります。
初代の鯉が放流されたいきさつも記事に書かれています。
やはり山古志との縁がありました。山古志で地震が起きたときに村長をしていた長島忠美氏(1951~2017)が、報道によって知られるようになり、その後、国会議員になられています。
その長島氏の発案で、地震で大被害を受けた鯉の養殖業者の復活を後押しすることと、「錦鯉の美しさを多くの人に知って欲しい」という思いから、議事堂の敷地内にある池に錦鯉が放流されたそうです。
ただ、鯉にとっては、池の深さが5、60センチしかない、しかも、石造りの池は棲息にはふさわしくなく、初代の鯉が放流されてからの10年間で、30匹の鯉が13匹に減ってしまったそうです。
それを伝え知ったのか、全日本錦鯉振興会が、これまで池にいた13匹を別の場所に移し、代わりに、新しい30匹の鯉が、昨秋に、与野党の議員らにより、池に放たれたことになります。
別の場所に移されたという13匹は、もしかしたら、故郷の山古志にある野池(のいけ)に戻された(?)かもしれません。
山古志で錦鯉が生育されるようになったのは、江戸時代からのことで、長い歴史を持つようです。
その始まりは、江戸時代に山古志で食用の真鯉(コイ)が育てられていたことです。真鯉は、錦鯉とは似ても似つかない、全身が黒っぽい色です。
その真鯉の中に、頭の部分だけが赤色の鯉が突然変異で生まれたそうです。鯉を養殖していた村人は、その鯉に見せられ、以来、交配を繰り返すようになったそうです。
交配が続けられたことで、変異が頻繁に起こるようになったのか、あるとき、全身が白い鯉と、橙色(だいだいいろ)の鯉が生まれたそうです。
それらを交配させたことで、番組が作られた1988年から百年ほど前、白地に紅の鯉が生まれ、これが今に続く錦鯉の原種となったのでしょう。
ほかにも、様々な変種が生まれ、紅白に墨の色を思わせる黒が混じった「昭和三色」や、墨色のような鱗が特徴的な「孔雀黄金」、全身がシルバーに輝く「プラチナ黄金」など、観賞魚としての魅力を持ちます。
それでも、紅白の錦鯉がなっといっても日本人には好まれるそうです。
番組では、錦鯉の養殖に見せられた「鯉師(こいし)」と呼ばれる男性ふたりの一年が描かれています。
そのひとりは、野間実(のま・みのる)さん(46歳)という人で、鯉師としてもっとも成功を収めた人として伝えられています。
野間さんは、番組が作られたときから29年前、高校生のときに父を亡くし、父が残したわずかな水田を、錦鯉を育てる野池にし、それが29年後には、野池の数が80、野池の総面積が25ヘクタールにまで広がり、6人の従業員と共に錦鯉作りをしています。
もうひとりは、鯉師としては中堅どころと番組では紹介する五十嵐千人(いがらし・かずと)さんという人で、野間氏のようになることを目指し、妻とふたりで錦鯉作りをしています。
五十嵐さんは、18歳のときに父を亡くしたのでしょうか。その歳に、出稼ぎ先から村へ戻り、10アールの水田を野池にすることから錦鯉の養殖を始めたそうです。
観賞用の錦鯉に成長するのは、猛烈な競争を勝ち抜いた鯉だけです。
毎年、6月に、野池に産卵用の仕切りが作られ、まずはじめに、親にふさわしい鯉が選ばれます。その年、野間さんは、80匹いる成長した鯉の中から、雄13匹、雌17匹を選び、交配を始めます。
野間さんの池ではその年、500万引きの稚魚が生まれますが、1回目の選別で、10分の1の50万引きに減らされます。つまり、450万引きは処分されるということです。
その後も定期的に間引きをし、7、8センチまで成長し、体の模様がハッキリしてきた鯉の中から、模様のバランスが良いもの600匹だけが残り、あとは処分されます。
この時点で、生き残った鯉は、その年の春に誕生したうちの800分の1です。
錦鯉が流通するまでは4年かかるということで、その間にも選別が行われ、残った数少ない錦鯉だけに、長い生命が与えられることになります。
国会議事堂の敷地内にある池に放流される鯉は、猛烈な競争に勝ち抜いたものでしょう。それであっても、生育環境としては良くなく、10年の間に、半分以上が死んでしまったということです。
「錦鯉はつらいよ」ですね。
もっとも、人間にしても、生殖の瞬間は、無限ともいえる数の精子の中から、たったひとつの精子だけが卵子(卵細胞)と結合します。それを思えば、どんな人間であっても、生まれてきただけで奇跡といえましょう。
野間さんのもとには、自分の野池で育って、買われていった鯉が里帰りすることがあります。番組でも、都会の医師に飼われていた鯉が一匹、里に戻ってきます。
どうしても、飼育環境がよくなく、せっかくの色彩が色あせて来るそうで、それを見るたび、野間さんは残念な気分になるそうです。自分が育てた子供が傷ついたのを見る思いでしょう。しかし、、野間さんの野池で半年ほど世話をすると、また、もとの綺麗な色が戻るそうです。
このことを番組で知っていたため、国会議事堂の池で飼われている鯉13匹が別の場所に移されると記事にあったのを見て、山古志の野池に移されるのでは、と想像してみたのです。
番組の放送から35年です。番組に登場した野間さんがご健在であれば、今年81歳になられます。
それにしても、新潟中越地震で山古志も被害を受けました。そのとき、番組で紹介された数々の野池と、そこに放流されていた錦鯉はどうなったのか、番組を見ながら気になりました。
番組が撮影された年も、低温と長雨で、鯉師が神経をすり減らしている様子が描かれました。
朝日の記事によれば、衆院側の池では、1965年頃から錦鯉を飼育していた、という記録が残っているそうです。ただ、その経緯はよくわからないとのことです。
現在の議事堂ができたのは昭和11(1936)年で、のちに錦鯉が飼育されることになる池は、噴水のために作られたというような説もあるそうですが、はっきりとした資料は残っていないそうです。