世に小説は数限りなくあります。その中で、一人称でなく、三人称でもない小説は少数派ではなかろうかと思います。残るのは二人称で書かれた小説だからです。
「僕」や「私」でなく、「彼」や「彼女」、あるいは誰かの名前でもなく、「あなた」と書かれた人の眼で見る話が綴られることになります。つまり、読んでいる当人の眼で見る話になります。
読んだばかりの阿刀田高(1935~)の短編集『消えた男』(1995)に二人称で書かれた作品があります。『自殺ホテル』というのがそれです。
書き出しは一人称で、「私」が旅先のベッドで目が覚めたところから始まります。誰でもそうですが、夢を見ているときは、それが夢だと知らずに見ています。目覚めてから、それが夢だったことに気がつきます。
私も経験がありますが、まれに、夢を見ている最中に、それが夢だと気がつくことがあります。私の場合は、子供の頃にそんな経験をしました。眠っているときに、自分が見ているのが夢だとがわかり、一所懸命に目を開けようとしたりした記憶があります。
本短編の「私」は、自分が泊まったホテルで目が覚めたところを夢に見、部屋の中に背広とズボンが下がっているのに気がつきます。眺めていると、ズボンの裾からは足が下がっており、自分がいる部屋で知らない男が首つり自殺したのであろうことがわかります。
夢から覚めても、まだ意識の半分は夢の途中にあり、「私」が子供の頃に、首つり死体を見たことを思い出します。「ひどく首が長かった」と書くのが生々しいです。
こんな風に、書き出しは一人称ですが、「私」の空想が広がり、次のような二人称の表現に変わります。
新宿の裏通り。
薄暗いバー。
あなたは一人で水割りを飲んでいる。
阿刀田 高. 消えた男 (角川文庫) (Kindle の位置No.1440). 角川書店. Kindle 版.
ここから先は視点が読者に代わり、読む人の目線で話が進むという趣向です。
「あなた」に不思議な体験をさせたあと、最後の6行はまた一人称に戻り、終わります。
本短編集では、読んでいて、そのやり取りに笑った作品があります。『鼻毛』というのがそれです。
村上春樹(1949~)の作品を続けて読んだとき、その感想のひとつとして、村上の作品では、登場人物同士がいい争う場面は登場しない、と書きました。厳密にひとつもなかったかどうかは断定できませんが、傾向としては皆無です。
それが、阿刀田の『鼻毛』では、40前後の男と女が口論する場面があります。それが、私には捧腹絶倒ものに感じました。
男は工業高校卒で、工事現場で働くような仕事をしています。歳は40間近ですが、まだ独り者です。別に相手を特別求めたわけでもありませんが、7カ月ほど前の雨の夜、飛び込んだバーで女に出会います。村上が書けば「運命の女」にしてしまうかもしれませんが、阿刀田はそんなことはしません。
男は冷めた考えを持ち、世の中に「いい女なんて、めったにいるものじゃない」と半分諦めており、「人生はそんなものだ」「高望みしたってろくなことが起きない」とその女とずるずると一緒に生活を始めます。
暮らし始めて、男はすぐに女に幻滅します。次に書かれているような女であれば、誰でも幻滅して不思議ではないです。
家にいても、和枝はなにもしない。炊事も、洗濯も、掃除も、あきれるほどやらない。食べるのは、てんやものか、スーパーで買うインスタント食品のたぐいばかり。流し場に汚れ物が山のように積んである。ごみも捨てない。家の中が饐えたような匂いでいっぱいになってしまう。それでも和枝は平気らしく、布団の中から首を出し、くだらないテレビ番組を見てゲラゲラと際限なく笑っている。
男が女から逃げ出す気持ちになると、女はすかさず男の気持ちを見透かし、「赤ちゃんができたみたい」といい、次のようなやり取りに発展します。
「なに言ってんだよ、そんな……」
「なに驚いてんのよ。セックスてサ、やれば子ができるもんよ、昔から」
「ふん、いい加減な」
「そんな言い草ないでしょ。あんた、適当に遊んでおいて逃げるつもりだったんでしょうけど、あいにくね。あんたの子どもよ。どう、背中に背負って工事現場へ行ったら」
「馬鹿なこと言うな」
「私、生むわよ」
阿刀田 高. 消えた男 (角川文庫) (Kindle の位置No.2160-2164). 角川書店. Kindle 版.
私は面白く読みましたが、現実にこんなやり取りをする人がいたら、身につまされるかもしれません。
本作の題の『鼻毛』は、女の鼻毛のことで、鼻から出ていると書きます。男がそれを注意するものの、女は気にもせず、「切ったって、すぐまた生えてくるだけ」と開き直り、しまいには、「そんなに見たければ、見れば」と鼻の孔を膨らませる始末です。
この男と女にはどんな顛末が待っているのでしょうか。それは、本作を読んで確認してください。
今回は、AmazonのKindle Unlimited(通常は月額980円)が、先月から来年の4月までの半年間利用できる環境にあるため、該当の本に入っている阿刀田の短編集を読み、その中にある作品を紹介してみました。