村上春樹(1949~)と翻訳仲間の柴田元幸氏(1954~)が、J・D・サリンジャー(1919~2010)の『ライ麦畑でつかまえて / キャッチャー・イン・ザ・ライ』(1951)について語り尽くす『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(2003)を読みましたので、それについて書いておきます。
それに続けて、村上の紀行文『ラオスにいったい何があるというんですか?』(2015)も読み終えましたが、一時に2冊を取り上げるわけにもいきませんので、こちらは次回以降ということにしましょう。
いずれも、Amazonで電子書籍を扱うKindle本ストアができて8周年を記念し、対象となる電子書籍を購入すると、ポイントが50%もつくというキャンペーンを利用して購入したものです。
で、サリンジャーについて語り尽くした『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』ですが、本コーナーでも取り上げた同じ村上と柴田氏が中心となる『翻訳夜話』(2000)の続編という位置づけでしょう。
『翻訳夜話』は、村上も長く続ける翻訳全般の話をしているのに比べ、本作は翻訳そのものより、サリンジャーの『キャッチャー_』だけに焦点を当て、二人で語りに語っています。よくもこれだけ語ることがあるものだ、と本作を読んだことがない私は、感心しながら読みました。
本作が出たのが2003年で、同年に村上訳の『キャッチャー_』が出ています。本作は文藝春秋、『キャッチャー_』は白水社で出版社は違いますが、明らかに、村上訳が出たことが本作の企画・出版につながったものと思います。
本作の「まえがきにかえて」で、出版に漕ぎ着けるまでの裏の事情を村上が書いています。
サリンジャーの『キャッチャー_』が米国で出版されたのは1951年で、村上訳が出るまでは、野崎孝氏(1917~1995)の翻訳版(1964)があるだけでした。若い頃に本作を翻訳で読んだ人は、ひとり残らず野崎訳であったわけです。
米文学に影響を受けて小説家になった村上は、それ以前から気に入った米国の作家の翻訳をしていたため、サリンジャーの『キャッチャー_』を自分なりの解釈で翻訳する考えを持っていました。
しかし、そこには特別の事情があり、すぐには実現できなかったそうです。それは、同作の翻訳本を日本で出版する際の契約です。
結果的に村上訳の『キャッチャー_』は実現しますが、それまでは野崎訳だけでした。なぜか、サリンジャーの『キャッチャー_』の日本語翻訳権(無期限)だけは、日本の出版社の白水社だけからの出版しか許されていなかったからです。
私はこうした翻訳本の契約については知りませんが、他の多くの作家は、複数の出版社から、競うように翻訳本が出ています。また、サリンジャーの作品でも、『キャッチャー_』以外にはこのような契約はなかったそうです。
その話を知った村上は、それだったらしようがないと一旦は諦めます。
村上が『キャッチャー_』を翻訳する気があるものの、諦めざるを得ないという話が白水社に伝わったりしたのでしょう。数年後、白水社側から問い合わせが入り、村上訳の『キャッチャー_』を是非と依頼されたそうです。
私の想像ですが、村上のネームバリューを使って米国のエージェントに掛け合い、商売上の理由から、許諾が降りたのだろうと考えます。
村上は長編小説の『海辺のカフカ』(2002)が一段落したこともあり、誘いを受けます。なお、野崎訳はそのまま残してくれることが条件だったということです。翻訳作業そのものは約3カ月で終わっています。
村上は本編の翻訳に、当然のように解説もつけるつもりでした。ところが、それを知った米国のエージェントが、「訳者が本に一切の解説をつけてはならない」と強い口調で伝えてきたそうです。
これには、サリンジャーの考えが反映され、読者一人ひとりの解釈で読んで欲しい、といった思いをエージェントが代弁した(?)のかもしれません。
としますと、本作で村上と柴田氏が彼らなりの解釈を展開していることを知ったなら、サリンジャーは苦々しく感じるかもしれません。作者の思いとはまったく違う話になっていたりするかもしれないからです。
結局許されなかった村上の幻の解説は、純文学の月刊誌『文學界』がサリンジャーを特集した号に掲載し、それに手を加えた版を本作で読むことができます。
二人による対談ですから、本来であれば、異なった解釈を持つ者であるほうが好ましいです。違った視点から読み込むことで、作品をより深く解き明かすことができそうだからです。
『翻訳夜話』で柴田氏が書いた「あとがき」を読みますと、村上は、柴田氏が大学院生時代に持った3人の神様的存在の一人だそうです。他の二人は、心理学者の岸田秀氏(1933~)と批評家の三浦雅士氏(1946~)とあります。
柴田氏の神様的な村上さんと対談するのですから、どうしても、面と向かって異論を唱えるのは難しいでしょう。というよりも、村上の考えを咀嚼するのに夢中で、異なった考えを持とうという考えがはじめからなかった(?)かもしれません。
こんな村上と柴田氏の対談は、考えを対立させることもなく、波乱なく進みます。柴田氏が、これはこう考えるといえば、村上は「その通り」と答える場面が目立ちます。逆のケースも多いです。読者は無責任ですから、喧々諤々の議論を読んでみたいのですが。
村上は、自分が発見したかのように、登場人物の多くは、サリンジャー自身の変形ではないか、というようなことを述べます。私はそれを読んで、そんなことは、誰が書くどんな小説でも同じではないのか、と考えました。
作り話に登場させる人物は、多かれ少なかれ、作家の分身です。その要素が最も強いのが主人公というだけで、脇役にも自分の似姿が反映されるものでしょう。サリンジャーの『キャッチャー_』が特別というわけではありません。
私は『キャッチャー_』を読んでいないので想像ですが、サリンジャーの思いが色濃く反映されているのではないでしょうか。
それは、皮肉なことに対談そのものではなく、対談のあとに添えられた幻の解説となった、「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳者解説」を読むことでわかります。
サリンジャーの生い立ちで強い影と感じるのは、父親との関係でしょう。父はユダヤ系を出自とする実業家で、米国への移民出身者で成功を収めた人にありがちな支配欲の強い人物であるようです。
成長した息子サリンジャーの出来に満足しない父は、サリンジャーに厳しく当たることもあったでしょう。こんな父と子のギクシャクした関係によってサリンジャーの中に鬱憤が生じ、その不満を『キャッチャー_』の主人公である16歳の少年、ホールデン・コーフィールドの姿を借りて表した、と受け止めるのが素直な解釈のように私には思えます。
しかし、村上と柴田氏の対談では、父と子の対立というような視点で話し合われたところがなかったか、私が憶えていないほど少なかった印象です。私の記憶違いかもしれませんが。
実在のピアニストを描いた映画に『シャイン』(1996)があります。ご覧になったことはあるでしょうか。厳格な父によって精神のバランスを崩した才能あるピアニストの話です。
我が子を思っての教育もそれが厳し過ぎた場合、子供には体罰に感じられ、それが度を越せば、『シャイン』で描かれたピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴット(1947~)のように、精神を病み、人生の後戻りができなくなってしまいます。
何も知らない私の勝手な想像ですが、サリンジャー父子に同じ関係を見てしまいます。
村上には思い込みの強いところがあり、自分が評価したものを、ほかの人が批判を加えることを好ましく思わないところがあります。
今でこそ高い評価を確立している作品ですが、発表当時の評価は低かったという話が、これも、村上の解説で書かれています。こんな話こそ、対談で取り上げて欲しかったです。
サリンジャーは書き上げた原稿を、前もって約束していたある出版社へ持っていきます。編集者はその出来に驚嘆したものの、上司は次のような判断を下します。
「狂人を主人公にした小説の出版にはいささか問題がある」
村上 春樹; 柴田 元幸. 翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書) (Kindle の位置No.2488). 文藝春秋. Kindle 版.
この反応をサリンジャーびいきの村上は「頓珍漢」と決めつけていますが、そうはいい切れないように私は考えます。
どんなものでもそうですが、あることがきっかけで高い評価がつきますと、その流れには竿がさされ、否定的なことがいい出せなくなり、ついには誰も否定できないひとつの権威になったりするものです。
『キャッチャー_』にも同じことはいえないでしょうか。
評価を得る前の否定的な評価として、次のようなことが書かれています。
- 一家四人の子供がみんな揃って「並ではない」のは現実的でない
- アリーとDBという兄弟の関係性が相似的であるのには無理がある
- サリンジャーは長編小説向きの作家ではない
- サリンジャーは小説をコントロールできず、ムードに取り込まれている
- 話が冗長すぎる
- ろくでもない人間や、くだらない学校の毒舌みたいなものはカットすべきだ
- 読んでいてうんざりする
- 作者にはもっと深いものが書けるはず。失望した
- 子供に読ませるのにふさわしい作品でない
- 先が読めてしまって退屈
- 汚い言葉やイメージが妙にひっかかる
- 主人公は言葉を単調に積み重ね、それが嘘っぽく聞こえる
- 形式があまりにも散漫
今の日本では『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』というアニメ映画が大人気で、観客動員数がふくらんでいると聞きます。私はアニメ作品はあまり見ませんので、このアニメ映画のことは知らず、見ることはしません。
そんな少し引いた目で見ますと、ヒットしているからさらにヒットしているように見えます。周りの誰かが見に行き、それにつられて見に行く人がいる、というようにです。
本の評価にも似たようなところがあります。主にマスメディアが商売上のこともあってある作品に高い評価を与え、それを見聞きすることで信じ込まされた一般大衆が、その作品に高評価を与えてしまう、といったような連鎖です。
村上の作品にしても、新作が出るたびにマスメディアは大きく取り上げ、100万部の売上だなどと囃し立てます。そんな現象を目の当たりにして、作家の村上はどんな感想を持つのでしょうか。
商売としては売り上げが伸びるほど成功で間違いありません。しかし、それと中身の優劣は別問題のはずです。
村上の作品について、Amazonに残る個人のレビューは、ベストセラーになった作品でも、低評価のものが少なくなく、星が五つつけられるところ、一つしか付けず、本当は一つもつけたくないというような最低の評価を下す例もあります。
今回の村上訳の『キャッチャー_』にしても、おそらくはサリンジャー本人の意向で(?)、自分の作品を解説することを許さない頑なさを見せています。それは、専門家がする解説のことで、一般読者はどのように読んでもらってもいい、というような考えではないかと私は理解しました。
そんな『キャッチャー_』に村上が入れ込んでいることは理解します。しかし、だからといって、この作品を批判的に論じるなというのは違うのではないかと感じました。
読んでみて、つまらなかったらつまらなかったの感想でもいいのではないですか。お金を払ってその作品を購入した人の感想なのですから。
逆に、みんながみんな「素晴らしい作品だ」と褒め称えなければならないとしたら、サリンジャー教の教徒にされたようで、私には気持ち悪く感じられます。控えめにいって、それは健全でありません。
『キャッチャー_』を私は読んだことがありませんので、この作品の私の感想を書くことはできません。野崎訳と新しい村上訳の両方を読み、違いを含めて感想を書いたら面白い(?)かもしれません。
この先、機会があれば_。