このところは、Amazonの電子書籍版で村上春樹の作品に接することをしています。今回は、読み終えた、村上が小説執筆の傍らにする翻訳について思いを語った本『翻訳夜話』(2000)を取り上げます。
内容は、村上と翻訳仲間の柴田元幸氏が中心となり、フォーラムの質疑応答、村上と柴田氏の翻訳実例からなっています。
村上は昔から翻訳を自分の楽しみとしてしていたそうです。きっかけは高校時代の英語で、翻訳のテキストにトルーマン・カポーティの作品の一部があり、それを読んだとき、文章が持つ美しさに痺れたというようなことを、本作の後編のような『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(2003)で述べる個所があります。
村上は両親が国語教師であったことが原因してか、日本文学からは意識して距離を置くことになったようです。日本語で書かれた作品に接すれば得られたであろう文体や語彙が村上には決定的に不足し、それが良くも悪くものちの村上作品につながっていったのであろうことが想像できます。
村上が自分の小説を書こうとしたとき、日本文学と距離を置いて過ごしてしまったため、日本人であれば、知らずと身についているはずの日本語の美しさに対する感覚や、語彙、文体というようなものが自分の中にないことに直面し、あるいは愕然とした(?)でしょう。
親への反抗心は誰でも持つものですが、その態度の結果が自分の職業に関わってくるとなれば、若気の至りで済まされませんから。
村上は表現者の自分としての文体が必要であると考え、そのために始めたのは、高校時代に見様見真似で始めて魅力を感じた英語で書かれた小説を翻訳する経験を活かすことでした。
村上は、語彙を多く持って書けば優れた作品になるわけではないと考えています。それを実践するように、初期の頃の小説は、英語で書き、そののち、日本語にすることをしたそうです。
英語で書くわけすから、当然、日本語よりも知っている語彙は少なくなります。少ない英語の語彙で書いたものであっても、自分の書きたいものが書けることに自信をつけていったのだろうと思います。
村上は、自分の作品で「鑑みる」なんて遣うことはないだろうと語り、他の人の笑いを誘っています。
本書に登場する翻訳仲間の柴田氏や、ほかの翻訳関係者は、翻訳を職業にしたり、職業にすることを目指しています。柴田氏は東大で学生に教える仕事を持ち、翻訳は楽しみですると語る部分もありますが、それでも、出版社から依頼された仕事が多いのではないでしょうか。
そんな人が多い中、村上だけは自分が翻訳したい米作家だけに限定しているのが特徴です。これは今も同じ意識なのか、翻訳は、その作家から小説の作法のようなものを吸収することが主な目的になっているようです。
翻訳には賞味期限のようなものがある、という話を面白く読みました。どういうことかといいますと、どうしても翻訳された作品にはその時代の流行が流れ込み、時代が経つと、それが却って古臭さを感じさせてしまうというような話です。
たとえばとして、村上が次のように面白い例を挙げています。
(レイモンド・)チャンドラー(1988~1959)の訳でもなんか無理に「太陽族」風に訳していたりするものがあって、これなんかいま読むとけっこう疲れます。たとえば「おっと、いかすじゃねえか」とかね。その時点では「生き生きした訳」ということになっていたんでしょうけど、チャンドラーとか(J・D・)サリンジャー(1919~2010)みたいな新しい古典の場合には、ある程度の常識的な手当てが必要になってきますよね。
村上 春樹; 柴田 元幸. 翻訳夜話 (文春新書) (Kindle の位置No.2686-2689). 文藝春秋. Kindle 版.
「太陽族」(太陽族:太陽族と映倫)というのは、石原慎太郎が1955(昭和30)年に『太陽の季節』を書くことで生まれた若者文化のムーブメントで、彼らが遣いそうな「いかすじゃねぇか」というのも、当時としては、それこそ「いかした」のかもしれません。
しかし時代を経てこんな言葉遣いを見ると、どうしようもなく古くさく感じるということでしょう。こうしたことをプロの翻訳家は経験的に知るため、流行り言葉はなるべく遣わないようにしているということです。
翻訳物を読むだけの読者は、そこまで気をまわして読むことは少ないですね。
村上はバリバリの小説家でありながら翻訳もするという稀有な存在であることから、どうしても、本業の小説の話が登場します。
あるいは意外に思われる人もいるかもしれませんが、村上は自分が書き上げた小説を自分で読み返すことを避けているそうです。それだから、自分で書いたものなのに、どの程度までかわかりませんが、ほとんど憶えていないと述べる個所があります。
ここには、村上の照れというものもあるでしょう。同じような意味合いで、自分が小説で書いた会話が出て来ざるを得ない映画化の話は基本的に断るということです。いわれてみれば、これまで、村上作品が原作の映画や小説を私は知りません。
しかし、ここへ来て村上の心境に変化があったのか、2013年に発表された村上の短編『ドライブ・マイ・カー』映画化の報道がありました。
この短編は短編集『女のいない男たち』(2014)に収められており、私は読んだばかりですね。私は、書き出しは興味を持って読んだものの、途中から話の展開が自分の想像した方向に進まなかった印象です。
もしも映画化が実現すれば、どんな仕上がりになっているか、確かめてみたい気がします。
小説作法の話に戻します。村上が小説を執筆するとき、そして、翻訳するときにも心掛けるのは、ビートとうねりだそうです。これを身に着けることができたら、「プロの文章家になれる」と断言しています。
ビートとうねりは同じようなものに思えますが、それを自分のものにすることでいえば、うねりが圧倒的に難しいようです。ビートは訓練によって獲得できたとしても、うねりは生まれ持った何かがない限り無理というような話だったと思います。
私なりの解釈では、ビートは短いリズムのようなものでしょうか。それらが合わさって、大きなうねりとなるイメージです。
良い文章に同時に必要なものはもっと深いうねりです。良い文章というのは、人を感心させる文章ではなくて、人の襟首をつかんで物理的に中に引きずり込めるような文章だと僕は思っています。暴力的になる必要はぜんぜんないですけど。
村上 春樹; 柴田 元幸. 翻訳夜話 (文春新書) (Kindle の位置No.505-507). 文藝春秋. Kindle 版.
この音楽に通じるような感覚は、自分で文章を声に出して感じるのではなく、目から入ってくる文字にそれがあるかどうか、ということのようです。
これから小説を書くことや翻訳家を目指している人が本作を読めば、ヒントになる教えが無数にあるでしょう。
専門家を目指さない人にも参考になる話があります。たとえば、「カキフライ理論」です。
これが村上から飛び出したとき、柴田氏から「何ですか、それ(笑)」と反応がありました。どんな理論なのか気になりますよね。
村上はあるとき、メールで質問をもらったそうです。内容は、入社試験で、自分について原稿用紙3枚ぐらいにまとめろといわれ、困っているというものです。村上も「プロだって書けない」と話しています。
人は、自分のことが一番見えないといわれます。それなのに、自分でもよくわかっていない自分を原稿用紙3枚にまとめるのは、確かにプロの作家にも難儀なことといえましょう。
そこで村上が提案するのが「カキフライ理論」というわけです。
これはカキフライに限ったことではなく、好きな物なら何でもいいそうです。大切なのは別の視点を設定することで、その視点から書くことで、自ずから自分という人間を書くことになる、という理論です。
私が書いただけではわかりにくいと思いますので、その部分の村上の発言の一部を紹介させてもらいます。
僕が言いたいのは、カキフライについて書くことは、自分について書くことと同じなのね。自分とカキフライの間の距離を書くことによって、自分を表現できると思う。それには、語彙はそんなに必要じゃないんですよね。いちばん必要なのは、別の視点を持ってくること。それが文章を書くには大事なことだと 思うんですよね。みんな、つい自分について書いちゃうんです。でも、そういう文章って説得力がないんですよね。
村上 春樹; 柴田 元幸. 翻訳夜話 (文春新書) (Kindle の位置No.2778-2782). 文藝春秋. Kindle 版.
本作は非常にお得な作りになっています。翻訳についてのあれこれを、村上さんをはじめ、お仲間の柴田氏、それから他の人の視点も含めて深く語ってくれています。
それだけでなく、原文付きで村上と柴田氏の翻訳文を比較して読めるコーナーまで用意してくれています。
テキストに使われたのは、村上が入れ込むレイモンド・カーヴァ―(1938~1988)の短編“Collectors”(邦題は村上が『収集』、柴田氏が『集める人たち』)と、柴田氏が入れ込むポール・オースター(1947~)の”Auggie Wren’s Christmas Story”(1992)(邦題は両者とも『オーギー・レンのクリスマスストーリー』)です。
この2作品を、すでに両氏によって訳したものと、本書の企画としてそれぞれの人が新たに訳したものを紹介しています。こうすることで、同じテキストを用いながら、翻訳家によって異なった味わいに仕上がる実例を見ることができます。
私はどちらの短編も初めて読みました。
これらのテキストは、3番目に催されたフォーラムに参加する男女3人ずつの現役翻訳家に原作と共に事前に読んでもらい、これらを遡上にして意見を戦わしています。
翻訳家は、男の一人称の自分を「私」にするか、それとも「僕」、あるいは「俺」にするか頭を悩ませるのだそうです。それによって雰囲気が異なりますから。「俺」とするだけで、荒々しさや粗雑さが出ますよね。
同じ原文を読んでも、読む人によって印象が異なります。
村上が入れ込む『収集』の主人公はどんな男なのだろうか、とひとしきり意見を述べ合います。
村上は「肉体労働に近い仕事をする30代はじめの白人男性」として訳したと話します。柴田氏も白人男性ということは同じですが、「パッとしない知的労働者」として読んだと述べています。
このあたりの話は面白いですね。
私は何の知識もなく、紹介されている順番通り、村上訳で読んだあとに柴田訳で読みました。村上訳を読んだことで話の筋がわかっているからか、柴田訳の方が、正直、読みやすく感じました。
作品が本来持つ味というか粘り気というようなものは、もしかしたら村上訳にあるのかもしれませんが、単純に読みやすさでは柴田訳でした。
奇妙な話で、失業中で部屋にいる男のもとに、見知らぬ訪問者がやって来ます。男の妻が応募した懸賞に当たったからとして、訪問者が男の部屋のクリーニングサービスを勝手に始める、といった話です。
オースターの『オーギー・レンのクリスマスストーリー』は面白く読みました。これは不思議なことに、村上訳も柴田訳も読んだ印象は似ていて、どちらも読みやすいです。村上にいわせれば、柴田氏が入れ込んで訳していると指摘していますけれど。
読みやすく感じたのは、話の筋がオーヴァーの短編よりも見えやすいせいでしょう。
主人公を村上は「僕」、柴田氏は「私」に設定しています。ここでは「私」としますが、「私」はおそらくオースター自身で、小説家です。「私」がお気に入りの葉巻を扱う店がそこだけで、「私」は必然的にその店で店員をするオーギー・レンという男と知らず知らずのうちに知り合いになります。
オーギーという風変わりの男も、何かを表現したい欲求を持っていたのでしょう。しかし、何も実現できないまま、煙草屋の店員をするといったところです。
そのオーギーがあるとき、「私」にどうしても見せたいものがあると奥の部屋へ連れて行きます。気乗りのしない「私」にオーギーが差し出したのは、同じ表紙の何冊もの写真アルバムです。
めくると、同じ街角から写しただけの写真が延々と収められているだけでした。オーギーの話では、12年間、毎日午前7時に同じ街角に立ち、カメラのシャッターを切って撮った写真が4000枚以上になったということです。
呆れた「私」は、オーギーに促されるように我慢して見続けるうち、それまで見えなかったものが見えてきます。毎日同じ時刻に同じ場所を撮影しているだけですが、そこに写っている人に“顔見知り”ができます。
そう思って見ると、見知らぬ人々が知り合いのように感じ、大げさにいえば、見知らぬ人々の人生を見るような感覚に変わります。
オーギーがこんな写真を撮り始めるまで、カメラは触ったこともなかったそうです。そのカメラを手に入れた12年前のクリスマスの話を「私」にするという話になっていきます。
この短編の話を膨らませ、1995年には『スモーク』という映画が作られています。村上は今回の企画翻訳の前に、この映画を見たと述べました。私は見たことがありませんが、興味を持ちましたので、見たいと思います。
本作の続編ともいえる『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』を読み始めましたが、こちらは村上と柴田氏の対話形式で、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて/キャッチャー・イン・ザ・ライ』(1951)について語っています。
その分、翻訳の一般論が多かった『翻訳夜話』に比べて専門的な話が多くなります。これも読み終わったら本コーナーで取り上げることになるかもしれません。