Amazonの電子書籍版で、松本清張の中編作品『疑惑』を読みました。久しぶりの清張作品になります。
本作は1982年、月刊の娯楽小説誌『オール讀物』2月号に掲載されています。その時の題は『昇る足音』です。この題は、ある場面を象徴しますが、本作の題にはあまり相応しくないように思わないでもありません。
私が付けるとすれば、『スパナと右足の靴』にしますかね。本作を読んだことがある人は、私が提案する題にも満足しないでしょうけれど。
11月5日まで、Amazonは電子書籍の「Kindle本ストア8周年記念」として、対象の電子書籍に50%のポイントを付与するキャンペーンをしています。私はそれに気がつく前に、清張の書籍に50%のポイントのつくものがあることに気がつき、本書を購入しています。
ほかに、同じ理由で、村上春樹の次の2冊も同時に購入しました。
いずれも短編集で、『一人称単数』の方は、最初に収録されている『石のまくらに』、『パン屋再襲撃』の方は、表題作の『パン屋再襲撃』と『象の消滅』を読み終えたところです。
投稿したあと、『ファミリー・アフェア』を読みました。
村上の作品は、長編の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013)を追加購入するかもしれません。
今回購入して読み終わった清張の本には、『疑惑』のほかに『不運な名前 藤田組贋札事件』が収録されています。分量はほぼ同じで、『不運な_』が若干多いです。
『不運な名前_』は、明治政府ができてすぐの頃、実際に起きながら、政府の要人で、長州閥の井上馨らと近い関係にあった藤田組(藤田財閥)が関係した事件(藤田組贋札事件)だったからか、捜査にあたった人間が権力の力で捜査から遠ざけられ、おそらくは何の関係もなかった熊坂長庵(くまさか・ちょうあん)(1844~1886)が起こした事件にし、北海道に造られた囚人を収容するいわゆる“樺戸(かばと)監獄”、樺戸集治監に収監され、4年後に獄死しています。
おそらくは、清張がその不誠実を告発するつもりでこの作品を書いたのでしょう。この事件について書かれた資料が長々と引用されたりしており、読み進めるのが億劫に感じます。
本物そっくりの原版はまず作れません。それを印刷する紙は用意できません。印刷のための印刷機やインクは調達できません。
それなのになぜ、熊坂を贋札事件の犯人としたのでしょう。
そのため、飛ばし読みしながら読み終えました。いずれ、時間をとってゆっくりと読むことにします。
清張の贋札事件を扱った作品に目を通すことで知ったことがあります。それは、当時の日本の紙幣製造所で働いた職工たちが置かれた厳しい現実です。作品に登場するルポライターの安田という男が、原版を外に持ち出すのは困難だ、と井田平太郎(前年に福岡の県立高校校長で定年退職。出身地は熊坂長庵と同じ現在の神奈川県愛川町中津)に、自分が知っている知識を話して聞かせます。
「職工が局内の作業場に出入りするにも、その手前で真裸にならなければなりません。まず鑑札引換所で名札と鑑札とを引換え、脱衣場で褌も外すんです。床からの高さ五十センチくらいの赤の丸太棒をまたいで通る。検査員が横にいて、隠しているものはないかと、じっと監視しているんです。帰るときはその逆でした」
松本 清張. 疑惑 (Kindle の位置No.2540-2543). . Kindle 版.
女工も同じ扱いだそうです。ただ、さすがに下襦袢と短い腰巻を付けることは認め、監督する目附も女性でした。
行刑資料館(月形樺戸博物館)で安田と居合わせた上岡麻子(京都にある私立女子大の助教授)から届いた礼の例の手紙で、あることを明かされます。それは、すぐ上で書いた女工を監督する役目を、彼女の近い縁戚の4代前に当たる婦人がしていたということです。
今回ここで取り上げる『疑惑』はわかりやすい作品です。それだからか、本作が発表された年に早速映画化され、そのほかに、5度もテレビドラマが作られています。
私はいずれも見たことがありませんが、それらの映像作品と原作とでは、かなり印象の違うものになっているかもしれません。
というのは、1982年の映画版では、被告の名前が原作の鬼塚球磨子(熊本の出身。名前の球磨は熊本を流れる球磨川から)が白河球磨子に換えられ、彼女の弁護をする弁護士が、男性から女性に代わっています。
おそらくは、被告と女弁護士を軸に話を展開しているのでしょう。
本作の肝は、被告と弁護士ではなく、男の弁護士と事件を取材する北陸日日新聞社会部の記者、秋谷茂一です。
映画作品には警察関係者に俳優を何人も当てています。ですから、捜査や捜査会議の場面があったりするのかもしれません。そんな場面は作品を無駄に長くするだけでのように私には思えます。
清張が脚色を担当した映画版で弁護士が女性に変更されたのがのちに制作されたテレビ版にも影響したのか、弁護士を女性にしたものが目立ちます。
もうひとりの重要人物は、球磨子を後妻に迎える資産家の白河福太郎です。
雨が降る夜、日本海に面した港湾の埠頭から、乗用車が海に突っ込み、沈んだ車から白河福太郎の死体が見つかります。一緒に乗っていた妻の球磨子は車から抜け出し、助かります。
球磨子がホステスをする東京・新宿のバーを、出張で東京へやって来た福太郎が知り合いに誘われて訪れ、不慣れな資産家に目を付けた球磨子が、福太郎をものにしてしまいます。
妻を亡くした福太郎の資産目当てで結婚まで漕ぎつけるや、すぐさま生命保険会社5社と契約し、福太郎が死ねば3億円の保険金が下りるよう仕組みます。
その上で“事故”が起き、福太郎が溺死して、後妻の多磨子が助かったのですから、警察は多磨子を疑うのも無理はありません。新聞社社会部記者の秋谷も、多磨子が仕組んだ事件に違いないと信じ、自分の社の新聞で、大々的なキャンペーン記事を連発したのでした。
当初担当していた弁護士が降り、代わって、誰も引き受け手がいなかったため、仕方がないというように、畑違いのひとりの弁護士が国選弁護人(国選弁護制度)になります。
大方の予想に反し、本気で弁護する気がないと見られていた弁護士が、“事故”の証拠である福太郎が履いていて、片方だけ脱げた右の靴と、運転席になぜかあったスパナ(レンチ)に注目し、弁護に炎を燃やすといった筋書きです。
清張は1992年に82歳で亡くなっています。ついでまでに、同じ年、私の母が亡くなりました。清張が死の10年前、72歳の年に書いた作品になります。