人それぞれで、百人いれば百通りの生き方があります。
住まいひとつとっても、同じ家に住み続ける人がいるかと思えば、次々と住む家を替える人がいます。私は自分が生まれた家に住み続け、一度も住宅環境が替わったことがありません。
人生の折り返し点はとうに過ぎていますが、この先、もしも住む家が替わることがあるとすれば、それは、可能性が極めて低い、結婚を機に新居に移ることぐらいです。
今回は、私のような人間の対極となる人物の話をします。本コーナーにはすでに何度か登場している江戸川乱歩です。
私のように住居を一度も替えない人の割合がどの程度かわかりませんが、乱歩ほどの引っ越し魔も割合は極めて少ないと思われます。生涯に47度引っ越しをした乱歩です。
子供の頃の引っ越しは、乱歩自身の意思によるものではなく、父親の仕事の都合からです。ですから、この分は差し引いても良さそうではあります。
乱歩は自分の住む家のほかに、職業替えもいつくもしています。
作家になる前の若い頃、食べていくのにも困り、支那ソバ(ラーメン)の行商をしたことがあるそうです。乱歩の随筆集に当時のことを振り返って書く文章があります。それを読みますと、そうしたことをしながら、それを苦労に感じず、自分だけの楽しみを見つけてしまう能力を生まれながら持っていたであろうことがわかります。
また支那ソバの行商をやつて、夕方から翌日の朝まで、重い車を夜つぴて曳いて商売をしたことがある。寒風に吹きさらされながら、ワンタンを包む味は今も忘れない。一晩十円ぐらゐの売りげで七円儲かつたこともある。仕事がすんで、朝四時頃、まだ暗い時分、下谷の谷中の墓地を必ず 通つて帰つたが、全く静かな、人気のない真暗闇な墓地を通ることは、一種神秘な瞑想に囚はれて非常に楽しかつた。一面私といふ人間はそんな風の男だつた。
江戸川乱歩. 江戸川乱歩 電子全集17 随筆・評論第2集 (Kindle の位置No.3235-3241). 株式会社小学館. Kindle 版.
明け方に墓地を通るのをたいていの人は嫌がるところ、乱歩はその静けさに神秘を感じたわけで、この感性が乱歩独自の表現につながったのは間違いなさそうです。
この静けさは、作家になった乱歩が、引っ越しを繰り返す理由となっています。
昭和9(1934)年、『セメント工業』という雑誌の7月号に書いた随筆によりますと、これを書いた頃、乱歩は、それまで住んでいた東京の戸塚から東京・高輪に住まいを移しています。この引っ越しは次の理由からです。
椅子に腰をかけ、テーブルに儼然と向つてペンを持つたならば書けるであらう
江戸川乱歩. 江戸川乱歩 電子全集17 随筆・評論第2集 (Kindle の位置No.3320). 株式会社小学館. Kindle 版.
逆さに見ますと、引っ越しする前の乱歩は、机に向かって執筆していなかったのがわかります。
乱歩は、執筆が進まない理由を、一般の人が考える作家のように、書斎で机に向かって書かないからだ、と考えたのでしょう。
引っ越し魔は、新居を見つける”達人”であったりするのでしょう。天井が高く、床もしっかりとした書斎がある家を見つけます。乱歩は、部屋に合う椅子や置物も調達して張り切ります。
が、どうも思い通りにいきません。
テーブルに向つてみると、どうも落着けない。戸を閉め切つて、日光をさへぎつて電灯を点してやつても見たが、高い天井の空間が、気味悪いほどに拡がつてどうに落着けない。
江戸川乱歩. 江戸川乱歩 電子全集17 随筆・評論第2集 (Kindle の位置No.3325-3326). 株式会社小学館. Kindle 版.
乱歩はその家を早々に手放し、十数年続けていると書く、”蒲団(ふとん)書斎”に戻ることになったそうです。
乱歩がのちのちまでそんな執筆スタイルだったのかわかりませんが、この随筆を書いた昭和9年頃までは、雨戸を閉めた座敷に布団を敷き、枕元には電灯を点けて置き、布団の上に腹這いになって原稿用紙にペンを走らせるのが性に合っていたようです。
この話を聞いて思い出したのは大江健三郎です。
大江の場合は蒲団書斎ではなく、家族が居たり居なかったりする居間を書斎代わりとしています。昔、大江が登場するNHKのドキュメンタリーがあり、それを見ることで大江の執筆ぶりを知りました。
見たのは30年、あるいはそれ以上前だと思いますから、それが今も続いているのか、あるいは、NHKの取材があったときだけなのかはわかりません。
作家然とした書斎で原稿を書かなかった点では乱歩と大江は共通しますが、乱歩に、大江の真似は絶対できなかったでしょう。他人の視線がある室内で執筆することなど、乱歩には考えられなかったでしょうから。
乱歩が考える理想の書斎については、次のように書いています。
さういふ私の好みから云へば、一体私の書斎は穴倉のやうなところが一番よいと考へてゐる。針一本落しても音の聞えるやうな静けさと、灯を消したならば、文字通り漆黒の闇─ ─さう云つたところが、一番気に入るだらうと考へてはゐる。
江戸川乱歩. 江戸川乱歩 電子全集17 随筆・評論第2集 (Kindle の位置No.3331-3334). 株式会社小学館. Kindle 版.
乱歩は随筆の中で考えを巡らし、穴倉(穴蔵)では湿気が健康に悪いことも書き、それならば、と高層ビルディングの高層階で、しかも、窓がなければ書斎には打ってつけではないか、と考えを膨らませることをしています。
昭和9年当時にイメージした高層ビルディングと現代のそれには開きがありそうですが、このビルディング云々の想像は、のちに書く『目羅博士の不思議な犯罪』(昭和6〔1931〕年)の創作につながっていはしないでしょうか。
乱歩は、当時の探偵小説作家とは趣を異にする面をはじめから持っています。それだからか、トリックそのものへの興味は強くなく(?)、人間が奥底に隠し持つ欲望に強い関心を持ち、文章で表そうとしています。
トリックを軸に書かれた作品は、謎が解けてしまったあとは、新鮮味を失います。乱歩が志向したであろう人間の闇に迫った作品であれば、人が原始的に持つ闇はいつまでも残り、それを描いた作品は、いつまでも色あせることがありません。
次回の投稿では、乱歩が描いた闇のひとつを紹介することにしましょうか。